文章を半分まで書いた時
文/天津の大法弟子
(明慧日本)明慧ネットを見てすでに1年半になりますが、投稿し始めたのは2ヶ月前からでした。何回か文章を書くことを通じて、私はある面白い現象に気づきました。最後まで書き終える文章もあれば、途中までしか書けない文章もあります。昨日書いた文章も途中まででした。
私は協調人との間に異なった観点を持っているため、問題を解決できないことを招きました。私の心は不平不満でいっぱいでした。自分が正しいと思って、帰宅してからもずっとその考えにつきまとわれていました。以前、この協調人との間に起きた様々な対立まで思い出し、心を静めて学法ができず、全身がだるくなり、歯痛もひどくてイライラしていたため、邪悪に隙間を乗じられて迫害されていると気づきました。そこで、私は真剣に内に向って探し始めました。
尊師は説法で次のようにおっしゃいました。「なぜあの人の言うことを聞かないといけないのか、自分の修煉が彼より良くできていると思っている人がいます。このように思ってはいけません。あなたの修煉が良くできていれば、指示に従うことができるのであって、これはまさに修煉が良くできていないことを物語っています」(『2009年大ニューヨーク国際法会での説法』)、「いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか?法に対する認識が高まったのでしょうか?人心をもって正しいかどうかを強調すること自体は間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手を要求しているのです」(『マンハッタン説法』)私は自分に問い詰めました。自分が協調人より良く修煉ができていると思っているのか? それならなぜ協調人に協力が出来ないのか? これはまさに修煉が良く出来ていないことではないのか! 修煉者は自分の心を修めるのではないのか? 私は何度も自分が間違っていないことを強調していて、実はそれは常人の理を強調することになり、たとえ常人の道理にかなっていても、修煉において全く向上することができません。その上、私は協調人と話をする時の態度は、他の人の上の君臨しているような心理状態で、とても危険です!
それらに気づいたとき、内心がパッと明るくなりました。私はすぐ母(同修)に内に向かって探した過程を話しました。言葉が口から出た瞬間、歯痛がなんと消えました。体に力も沸いてきました。私は再度、内に向かって探す力を体得しました。そこで、私は自分の今回のことを文章にしようとしました。テーマは「常人の中で道理にかなっている情況下でも内に向けて探すべき」です。私はこのような興奮した情況の下で書き始めましたが、文章を半分まで書いたとき、私は落ち込みました。なぜならば、紙いっぱいに書いたのは執着ばかりでした。利己的、横暴、顕示・・・明らかに全部私の間違いでした。たとえ常人の中でも道理にかなっていません! こんなに簡単なことを、なぜ文章を書く前に気づかなかったでしょう? 急に自分がとてもおかしいと思いました!
この時、私は尊師の言葉を思い出しました。「利筆は華章を著(あらわ)し 詞剄(つよ)く句強みを蘊む 科学は満身の洞 悪党の衣は尽く剥ぎ取られる」(『洪吟二・学員の文章を読む』)私はすぐに悟りました。「悟ることができた」と「悟ることができた事を書き出す」には、他空間では本質的な違いがあります。つまり、人が脱党したいと思うことと、声明を出して脱党することは全く異なる意義を持つということです。「悟ることができた」のは、時には根を掘っても、あまり深く掘ることはできませんが、「悟ることができたことを書き出す」は、徹底的に私達の空間場内に深く隠れたすべての執着、後天的の観念と邪党文化を暴露することができ、それらは逃げることができず、解体して、自分をしっかりと修めることができます。
文章を書く過程は、徹底的に私達自身の空間場の環境をきちんと整理する過程でもあります。当然、交流会の発表原稿とふだんの交流原稿とも違います。交流会の交流原稿はふだんの交流よりさらに丁重で、重みがあります。
個人の浅い悟りです。
2009年9月28日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/9/22/208721.html)
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