日本明慧
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明慧は大法弟子のこの世の「家」


文/南京の大法弟子

(明慧日本)幸運なことに「明慧週刊」を知りました。拝見してみましたら、目の前がパッと明るくなり、頭がはっきりしたような気がしました。同修の素朴な言葉、限りない思いやり、心の奥底からあふれ出す慈悲が私の心にしみて止みません。明慧で同修たちは一堂に集まり、思う存分に修煉体験や様々な試練、様々な辛酸を嘗めたことを語り合い、家族同然に修煉の道を一歩一歩慎重に、踏み外さないように、落伍しないようにと互いに励まし合い、知らず知らずのうちに大法の中に溶け込み、自分の不足と差を見つけさせてくれました。特に、同修の法理に対する明晰な認識は私を悟らせてくれます。教育をあまり受けなかったため、「法に基づいて法を認識する」ことや「感性的認識」、「理性的認識」等の言葉の意味について、困惑していましたが、明慧という「家」ができてから、同修の指摘を得ることができ、法理において著しい進歩が見られました。私はもう二度と迷ったりせず、師父の法を正す進展についていくことができるようになりました。 

 自分が恩恵を受けても同修のことを忘れてはいけないと認識し、常に『明慧週刊』をほかの同修に回すようにしています。しかし、古い学習者は安全のため、精進しないあるいは新しい学習者に回さないようにしています。しっかり保管できなければ、問題が生じることになるからです。正法の進展はすでにここまで来たので、万が一問題が起きたら・・・などと言います。この言葉を耳にするたびにいつも何とも言えない気持ちになります。一体どうすれば良いでしょうか。彼らも大法弟子です。背中を押してあげれば、前に進みます。ちょっと緩めれば次元が下がります。私たちは一つの全体です。師父の望まれている全体の昇華、全体の向上、全体の調和、そして法を正す進展に追いつくことこそ大事なことだと思います。

 一人も落伍させたくないことは師父が望んでおられます。師に遵って法を正す大法徒にとって、師父の願いは私たちの願いです。私たちが修めているのは無我無私ではないでしょうか。ここで大陸の同修に提案します、直ちに行動を起こし、かつて法を得た修煉者で、邪悪の圧力に屈して引きこもってしまったすべての同修に関心を持ちましょう。私たちの一つの行動、一つの言葉は極めて重要な役割を果たすに違いありません。師父は次のようにおっしゃいました。「これらのことに大法弟子の寛容、善良と和やかさを表すべきです。相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです」(『二〇〇二年ワシントンDC法会での説法』)

 ここで、この明慧の大家庭で皆さんと幾つかの修煉、衆生を救い済度した体験を交流したいと思います。

 資料を配り、真相を伝えて衆生を救う

 一部の学習者は、危険なので地元で資料を配らないほうが安全だと言い、周辺の地域まで資料を配りに行くことに慣れています。また、師父に人を救い済度することを教えられ、誰を救おうと、いずれにしても同じことではないかと言います。この言葉を聞いて、どうもこのような考えは間違っていると思います。師父は『洪吟(二)・何を恐れる』の中で次のようにおっしゃいました。「あなたに恐れ有らば、它はじきに抓む、念を正しくすれば、悪はすぐに崩る、修煉の人、法を具え、正念を発すれば、爛鬼炸く、神世に在りて、法を実証す」 修煉者として、法に基づき、修煉者の意識で物事を考え、正念をもって全てに対応し、ただ師父の教えの通りに衆生を救い済度すれば、邪悪はあえて迫害することができません。

 私もずっとこのように行ってきました。資料が手に入ればすぐ地元へ配りに行きます。また、直接人に手渡して、この資料はどんなに貴重であるか、読み終わったら捨てないで、身内の人に回して読んでもらうようにと伝えています。もし相手がさげすむような態度をとるならば、資料を渡さないことにします。一枚一枚の資料が衆生を救い済度する働きを最大限に生かしたいからです。 

 師父が真相の書かれている紙幣を使う話をされて以来、私はずっと実行し続けてきました。大きい百元札から小さい一元札まで、もれなく、すべての札に真相のフレーズを書き入れて、使うときに正念を満たして、雑念を取り除けば、なんの問題もなくずっと普通に使えます。 

 私たちは法を実証していれば、大法も私たちを見守ってくれるはずです。ある日、900元の買い物の支払いに、動じず冷静に真相紙幣を渡しました。店員さんが一枚ずつ目を通してから、私にニッコリと笑って紙幣を受け取りました。また、ある買い物をした時、20元を渡そうとしたら、20代の若い男性が札に字が書かれていることに気が付いたようで、これは何と書いてあるのかと聞きました。あなたに福を届けに来ましたが、いりませんかと私が勧めると、その若い男性はすぐ「ありがとう、ありがとう」とお礼を言いました。このような事例は他にもたくさんありました。

 また、ある時のことでした。邪悪の機関で身分証明書の申請をした際、40元を提出しなければなりませんでした。しかし、15元しかもっていなかったため、50元札を借りてきました。手続きを終え、50元札を渡すと、10元札はないかと窓口の人が尋ねてきました。手持ちの10元札を渡しても、相手は受け取ってくれません。窓口の人は先の50元札をじっと見つめて、そして、この50元札を外で両替するようにと要求しました。この50元のお札はまさか偽物ではないかと疑い始めましたが、突然、師父が私を守ってくださっていることを悟りました。身分証明書の申請に来たのに手数料を忘れ、担当者は最初10元を請求したのに、なぜやめたのか。全ては偶然ではありません。なぜならば、私が持っているお金は全部真相フレーズつきのお札です。しかし、ここは政府機関で邪悪の巣窟なのですから、師父が私に手持ちのお札を使わせないようにされたのだと思います。私の胸に何か熱いものがこみあげてくるような気がしました。慈悲なる師父がいつも私たちを見守ってくださっています。

 私たちの地域のある同修は、生活態度に節度がないと誤解され、この噂が同修の間で一気に広がりました。われわれは皆、大法弟子です。皆のことを師父の法身が見守ってくださっています。邪悪の手助けとなるようなでたらめを言って、邪悪がしたくてもできないような真似をしてはいけませんし、仮に、本当にこのことが事実であれば、この同修を助けるべきではないでしょうか。誰でも執着を持っているはずです。ただし、持っているその執着が違うだけだと思います。師父は一人も落伍させたくないはずです。しかし、ある同修たちが私たちは彼を手助けすることができない、今後どうするかは彼自身に決めさせなければならない、と言いました。

 このことに困惑して、納得できませんでした。考えれば考えるほど当事者の学習者のことが悔しく思えて、仕方がありません。落ち込み、心に不平を抱き始めました。自分ではなく、同修に目を光らせ、自分のことを修めていないのではないか、自分が関わってないから関係ないと思い、矛盾を回避して他人に向けている、などいろいろな思いがこみ上げてきました。師父は『ロサンゼルス市法会での説法』の中で「いつも人の不足ばかりを見ていて、自分を見ることを重視しておらず、相手はよく修煉できましが、あなたはどうなるのでしょうか? 師父はあなたの修煉が良くなることを望んでいるのではありませんか?」とおっしゃいました。師父の法が私を気づかせてくれました。同修と交流したとき、私は深く隠れて、気づきにくい心を持っていますかと聞かれました。学法を通じて、自分の心を深く探ってみると、争う心、不平不満な心、憤る心を見つけました。今回のこの件が起きたのも偶然ではないことは確かです。師父はこのことを利用して私たち全員を試されたのでした。私たちは神の道を歩んでいる人間です。神の考えで物事を考えなければなりません。うわべの幻想に惑わされず、問題が起きたらまず冷静を保たなければなりません。修煉者も過ちを犯すものと師父が話されたことがありました。同修も修煉者なので過ちを犯すのです。これは同修の自分の執着が原因なのです。しかし、こんなにたくさん執着心が隠れている自分も過ちを犯したのではないでしょうか、間違いありません。

 足りないところを見つけて、落ちつくことができました。ここで同修たちに、どんな問題に遭遇しても、必ず師父が教えられたように内に向かって探し、まず自分に向けて探すように呼びかけます。修煉者の心持ちで全ての事に対処し、回り道を省くために常人の物事のうわべだけを論じるような対処をしてはなりません。師父は『シンガポールでの法会における講法』の中で、「実は本当の意味を言うと、それはあなたの心の中で修め、あなたの心を鍛え、自分の弱点、欠点を見つけて、全部根こそぎにしなければいけないということです」と話されました。 

 今日、私は明慧というこの我が家で、自分の修煉にける心の本音を打ち明けました。足りないところは同修の慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 2009年11月24日 

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/7/4/203927.html
(English:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/7/15/109185.html

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