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自我を放棄し、恐怖心をなくす

(明慧日本)私は1998年5月、幸運にも法輪大法に出会いました。以前は全身病気でしたが、学法してから1週間で全部治り、体はとても軽くなりました。それに伴って私の世界観や人生観も徹底的に変わりました。このような変化を見た家族や周りの人々は、大法の素晴らしさを感じました。私は大法から無限の良さをいただきました。長年の修煉でいろいろな経験や教訓もありましたが、その中から二つの体得を皆さんと交流したいと思います。

 「恐れる」執着をなくす

 1999年「7.20」から大法が迫害され、私は北京へ行って陳情したため拘束されました。2001年に経文を配った事を同修に言われ、また連行されました。家族や各方面から大きな圧力がかかってきましたので、恐れる心が非常に重さを増すようになりました。学法をほとんどしなくなり、何か起こったときも自分を探さず、巻き込まれることを恐れて同修との連絡が途絶え、3年ほど全体から離れ、ひとりで法を実証するほうが安全だと思いました。学法をしないため恐れる心も重く、それに全体から離れたため、正法の進展について行けなくなりました。

 後で私はこう悟りました。「恐怖」という物質が私の空間場に大きく作用し、邪魔するのは、自分に深刻な問題があったからです。私は最も正しく、最も神聖な事をやっているのに、なぜ怖がるのでしょうか? それは小さい時から共産党の要素が生活の隅々にまで浸透し、長年の間、私の空間場に多くの党文化の毒素が残されたからです。それをまだ徹底的に取り除いていませんでした。2005年になって、私は資料を作って法を実証したい気持ちになりました。師父の按排でパソコンができる同修に助けられて資料拠点を作りました。これで私の地域の資料は他のところからもらわなくても良くなりました。私は毎日、真剣に学法し、資料拠点も順調でした。

 だが、忙しくなって、学法できなくなると、また恐れる心が現れてしまいました。実はその「恐怖」の背後には利己的な「私心」があったからです。「自分より人のことを先に」という正覚を修めている私たちが衆生を救い済度する事を衆生は待っています。しかしこの「恐れる心」をなくさない限り、救うことができません。私がいつも自分の事ばかり考えていては、師父の正法の進展にどうついていくのでしょうか? こんな利己的な自分は旧勢力の道を歩んでいるのではないでしようか? 

  「恐れるという心」は「求めていること」であり、取り除かなければ危険につながります。2006年に真相を伝える事である同修が迫害され、多くの同修が巻き添えになり、資料拠点も破壊され、私は余儀なく家を出ることになりました。これらは皆その「恐れる心」の結果です。当時、屋根から雨が漏れて、直せば直すほど漏れました。これは師父の啓示であるにもかかわらず、全く法の上から見ないで、同修と交流もしませんでした。自分の問題を内に向けて探さず、人の問題ばかり探して衆生の救いと法の実証に莫大な損失をもたらしてしまい、深刻な教訓になりました。私は絶対にこの「恐れる心」をなくそうと決意しました。これからもっと発正念を重視して、深く隠れている執着や党文化の毒素を取り除いて、正々堂々と師に従って法を正し、衆生を救い済度します。そのために、もっとしっかり学法します。

 内に向けて探し、自我を放棄する

 同修と交流していると、私が同世代より老けて見えると言われました。つまり私はよく修煉していないということです。衝撃でした。師父は「法輪大法(ファルンダーファ)の修煉者は、一定期間の修煉を経ると、表にあらわれる大きな変化として、肌のきめが細かくなり、色も白くなり赤みがさしてきます。年配者は、皺(しわ)が減り、ほとんど消えてしまう人もいます。これはよく見られる現象です」(『転法輪』)修煉者はますます若くなるはずなのに、私は10年過ぎてもどうしてこんなに老けているのでしょうか?

 この問題をめぐって私は内に向けて徹底的に探した末、いろいろな事がわかってきました。真に自分を修めず、トラブルが起きたとき、いつも人に向かっており、人の気持ちに配慮しないで、自分ばかりを主張し、家でも外でも自分の言うとおりにしたいのです。人のためだと思ったことが、本当は自己を放棄していないことだったのです。解決できないと,常人と同じ様に喧嘩をするので、修煉していない家族に「あなたは真善忍を修煉しているのではないの?」と言われました。これを聞いて何も言えませんでした。

  師父はきっと、家族の言葉を利用して私に教えて下さったのです。師父は『マンハッタン説法』で「旧勢力はすぐにあなたのことを覚え、今回の行動は弱みとしてそれらに握られてしまい、厄介なことがあなたを待っています」と言われました。本当に厄介なことがありました。警察が家に来て、建物を見るふりをしました。当時師父の加持と同修のお陰で、危険から守られましたが、3カ月家を離れざるをえませんでした。

 自分が真善忍に従わず、家族や衆生に対して優しくなく、真相を知らない警察に悪口を言うことは慈悲が足りないと気がつきました。同修からもいつも自分が正しいと主張すると言われました。私はやはり自己を放棄しないで、自分がやりたいことに執着があり、多くのことで法から離れていました。こんな状態で法を実証することは、神聖でふさわしいことでしょうか? 師父にはこう教えられました。「何かを行うとき、相手のことを考え、トラブルに遭ったら自分のことを考え、このことは誰もが言えますし、誰もが分かっていますが、肝心なときになると、それができなくなります」(『2009年ワシントンDC国際法会での説法』)

 以上は修煉の中で体得したことであり、交流したいことでもあります。間違ったところは慈悲なご指導をお願いします。合掌!

  2010年5月19日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/3/18/219989.html

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