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性格、年齢、職業、習慣からできた執着


文/中国の大法弟子

(明慧日本)修煉者の道はそれぞれ違い、多くのことを経て、成熟していく過程は言葉で表すことができません。私は個人の性格、年齢、職業、習慣と修煉との関係について述べたいと思います。 

 私は修煉を始める前、人に優しくし、人と争わず、相手をよく理解し、友達が多く、家庭環境もよく、むしろ自分が苦労と犠牲を負っても相手の喜びを願い、異議があるときは自分のやりたいことを捨ててもかまわず、完全に自我をなくすことができる人でした。しかし、実際に自分の心は苦しくてバランスが取れませんでした。まさにこの苦しみから解放したいという執着を持って修煉の道に入りました。

 修煉をしてから、私は今まで自分の「善」が純粋ではなく、師父のおっしゃった「職場で、あるいは社会で評判が悪くても本当に悪い人とは限らず、逆に評判が良くても、必ずしも本当に善い人とは限りません」(『転法輪』)のようでした。この不純な「善」の裏に名誉を求める根本的な執着が隠れていたので、褒めてもらいたい心から周辺の良い人間関係を保っていました。このような性格から、私の修煉はたいへん苦労し、かつ疲れるものでした。嫁ぎ先の家族の修煉者は私1人だけなので、1999年7.20以来、家族からの魔難が絶えませんでした。習慣となってしまった弱い主意識は私の修煉の壁となりましたが、師父のご加護の下で、私は修煉を諦めず、三つのことをこそこそやり始め、恐怖心が徐々に減るまでに至りました。

 名誉を求める心から、習慣になった弱い主意識を見つけましたが、実行するときにそれを法で隠し、さらなる大きな執着心となってしまいました。

 師父は『マンハッタン説法』の中で「いかなる出来事によって形成された習慣も物質の生成なのです。ほかの空間にそういう物質があるから、この空間でこの状態が現れたのです」「その物質は私が全部取り除いてあげますが、養われた習慣は皆さんが必ず除去してください。必ず、必ず除去してください」とおっしゃいました。私はこの部分の法を何回も拝読し、「性格と習慣は私の空間場にある腐ったものであるため、口からなくすことではなく、学法と確実な修煉の中から、そして功能から取り除くしかない」と悟りました。それで、私は自分自身の空間を片づける正念を発するとき、これらのものを取り除くという一念を加えました。

 それから、学法のときに集中できるようになり、煉功と発正念もしっかりと行えるようになり、真相を伝えることの恐怖心も減り、心が平穏になりました。以前、発正念をするときの手はうちわを使っている手のように1分間で何度も揺れ、ときに目を開いても形が崩れた発正念の手をコントロールできず、静功をやるときもよくぼんやりしていました。これから私の正念が強まるにつれて、私の空間もますますきれいになると信じています。

 習慣や観念と言うと、異なる性格や年齢や職業には気づきにくい習慣があります。例えば、あなたは前から常人の中で個性が強く、自分を中心に置き、傲慢な人であれば、修煉の中にはこれが必ず現れます。しかし、実際にこれは本当のあなたではなく、あなたの空間にあの物質があるからです。

 例えば、あなたは若い人ならば、綺麗なものが好きで、美容が好きなのでしょうか? あなたは年寄りであれば、目がかすみ、難聴で、健忘であり、足腰が弱いために健康食品を購入したり、老後のためにさらに稼いだり、あるいは老後の保険金をかけたりするのでしょうか? あなたは医療従事者であれば、人にどのように栄養と健康を取り、どのように病気を予防し、治療すると教え、あなた自身もこのような理論で量るのでしょうか? あなたはレストランのコックであれば、人に栄養バランスのことを言い、自分の食事も同じように考えているでしょうか? そうであれば、法に基づいた法の認識ではありません。修煉の中にこのような腐敗したものは反対の働きをかけて修煉を妨害するだけだと思います。

 師父は『精進要旨』の「警告」の中で次のようにおっしゃいました。「皆さんが人間の状態を変えようとすることなく、理性の上からも大法を真に認識するまで昇華することがなければ、皆さんは機会を失うことになるのです。 皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできませんし、圓満成就できません」

 この法について、私は今さらなる深い認識ができました。私たちは常人の理を越えなければ、知らず知らずのうちに魔を滋養します。この魔は物質であり、私たちの空間にあり、法を正すことを妨害しているばかりではなく、この「家の泥棒」が外の鬼を招き、私たちの魔難を大きくさせ、私たちの意志を弱くさせます。法を正すことが表に達した今日では魔の根を掘り出し、本当に「俗世にいながらも、念はこの世にありません」(『2005年マンハッタン国際法会での説法』)のようにするべきです。

 私は2つの心得があります。1つは人への私の態度が佛かあるいは魔の表れが見えたら、魔を取り除きます。もう1つは他人の私への態度、あるいは他人間の態度が見えたら、自分の第一念は何でしょうか? 他人の態度を自分の鏡として、腐敗したものが現れるとすぐ消滅します。 このように内に向けて探しましたが、時々私はまだよくできておらず、法理で鏡を回して他人を照らし、外に向けて探したことがありました。内に向けて探すという法理について、師父は異なる角度から多く教えてくださり、また「相は心から生じる」という法理を開示してくださいました。私の周囲の環境と状態は自分の心から生じたものではないでしょうか。これから、「内に向けて探す」ことを習慣にするように努めます。

 私たちは大法弟子になりましたが、多くの旧宇宙の神、佛は私たちのような機会がありません。この億万年の機縁を大事にし、より多くの衆生を救い済度し、師父の期待に添い、そして各自の先史の誓約をやり遂げましょう。

 2010年3月24日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/2/15/218213p.html

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