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善を修めることについて


文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、善についてより深く認識できました。師父は善について『精進要旨』の「善を説く」の中で「大覚者たちの基本的な本性でもあります」とおっしゃいました。以前、私は深く考えず、自分も善を修めていると思っていたのです。しかし、最近、同修との交流あるいは家庭の中で絶えずトラブルが現われて来ました。ついに、善についてよく考えるようになりました。

 私の叔母さんが以前大法の修煉をしていたのですが、今は邪に走っています。様々な原因で、叔母さんが私と同修の母と一緒に住むようになりました。以後、家庭の中で絶えずトラブルが出てきました。最も深刻の問題は大法の修煉と邪悟についての衝突です。

 叔母さんは私と母が大法を修煉していることに非常に不満を持っており、心の奥から憎んでいるようで、私達も叔母さんが大法に背いた行為に不満を抱いておりました。その上、考え方と生活の習慣の違いによって毎日摩擦を起こしていました。母と叔母さんのことを話すと、お互いに家庭の難関に囲まれて不平を感じながらも仕方がないと諦めていました。

 ある日、母が叔母さんと大口喧嘩した後、叔母さんが母の修煉のことを告発しようと言い出したのです。家族の説得によってようやく収まったのですが、なぜか私の胸に大きな石が塞がっているような苦しみを感じました。その気持ちを抱いたまま法の勉強会に行きました。

 同修とこの件について交流すると、同修が自分の家庭の関門を乗り越える体験を話してくれました。崩壊寸前のはずの家庭が、同修がよく善を修めたことによって、様々な不平や怒りが彼女の慈悲によって解けました。現在、睦まじい家庭生活を送っているそうです。

 同修は今の私の家庭の関門の大きさと叔母さんの邪悟になったことが、すべて私と母2人が善をよく修めていないためだと、はっきりと指摘されました。私達が良く修めていなかったため、家庭環境を改善できず、邪悟になった者を取り戻すこともできなかったと、深く考えさせられました。

 冷静に内に向かって探すと、十数年も修煉してきた私が、真剣に善を修めていなかったことに気がつきました。他人を先に考えたことがあまりなかったし、考えようとしても善から出てきたものでもなかったです。私は末子で、皆に甘やかされて育ったせいか、冷たさ、利己的、嫉妬深い、闘争心、自己中心のものが多く持っており、実際の修煉の中でよく修めてそれらを取り除こうともしませんでした。外にいると、体面を重視し、礼儀を正しくするが、家に帰る途端、わがままに戻ります。

 私は叔母さんによって大きく育ったようなもので、しかし、叔母さんの欠点を重く見て年配者として尊敬したことがなかったのです。家族のほかの人にも同じ態度を取ってきました。自分が皆より優秀だと思い込み、それで、家でいつも上の目線で家族を見下ろしたのです。もし、家族の誰かが間違いを犯すと、大声で叱責し傷つけてしまうのです。もし、私が家族に役立つことをすると、すぐ、誇らしげに思い、褒める言葉を期待します。少し多めに犠牲を払うと、すぐ不満を抱き不平を言い散らすのです。

 叔母さんが大法を恨むのは、すなわち、私と母が邪悟になった者に対する恨みなのです。私達が裏切りによって傷つけられた憎しみも含まれており、大法への迫害への憎しみもあります。どれでも大法弟子として持つべきではないものばかりです。皆が宇宙の「悪」のものに属しているからです。

 このような根強い私的心、多くの不平と怨恨を持っているとは、よく修煉していない現れです。よく探せば、この私の心が旧宇宙生命の私への執着の私心で、私達がまだ正していない旧宇宙生命の汚れた部分の表れでもあります。根本的からこれらを解体しなければなりません。

 恨みの源を探し出すと、思惟が明晰になったような気がしました。この数年来、ことをやり遂げるのを修煉だと勘違いしてきたため、着実に修煉してきたのが少なかったです。私は師父の「相は心から生じる」の法を思い出しました。叔母さんが私達に対する態度が私達の心性のそのままの表れだと悟りました。利己的で善が足りず、外に向って探し、すべてが私達の心性の現れです。私達は修煉に正しい態度を持っていないため、家庭にトラブルをもたらし、邪悟になった叔母さんを取り戻すこともできなかったのです。すべてが自分達の間違いなのに、どうして他人のせいにしてしまったのでしょう。

 師父が『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』の中でこのようにおっしゃいました。「必要なとき、あなたは理性をもって、冷静になり修煉者らしく振舞わなければならず、自分の責任、自分の正念が主導的になるようにしてはじめて、あなたの本 当の善が現れます。これは修煉者と神との違いです。これは慈悲であり、わざと表したのではなく、人間の善悪と好みの表れではありません。やさしくされたら 善をもって接するということではありません。それは代価がなく、報酬も気にせず、まったく衆生のためのものです。ですから、慈悲が現れると、この上ない力 があり、いかなる良くない要素も解体されてしまいます。慈悲深くあればあるほど、力が強くなります」

 心を根本から変わり、叔母さんへの恨みを取り除き、救い済度を待つ衆生として看做し、慈悲を持って接すべきだと分かりました。正法が終わっていないうち、師父がスパイにもチャンスを与えてくださっているのに、私はなぜ大きな心を持って家族を救い済度することができないでしょう。大法をよく修めれば、如何なることも実現できると信じています。

 現次元での浅い悟りなので、同修のご指摘をお願いします。

 2010年2月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/2/16/218279.html

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