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根本的な執着をなくすことについて


文/中国の大法弟子

(明慧日本)「あなたは自己に執着しすぎている」と、私は同修に言われています。私はずっと法理に従って問題を考えており、同修の不足を指摘するのも同修のために言うのであって、自己を実証しているのではありません。なぜ同修に、自己に執着していると言われるのか不思議に思っています。

 「根本的な執着をなくす」という同修の文章を読んで、私はやっと分かりました。同修の根本的な執着は私と同じです。それは大法が「自らの人としての道理に符合している」(『精進要旨(二)・円満成就に向かって』)からで、すべての生命は私の次元から認識した大法の法則に従うべきだと思い込んでいました。

 この観念の下で、私は自分に対して厳しく律し、大法に背いてはならないと思い、時には極端に自分だけが優れているという「孤独」を感じています。そして、道徳観念の低い常人を軽蔑して、心の広い人、レベルの高い人、能力のある人に敬意を持っています。同修に対する要求も高くなり、些細なことでもすぐ指摘して、周りを考えず、相手の感情に構わないのです。修煉のよくできている同修を尊敬して、少し執着がある同修に対しては、自分の悟った法理を相手の頭に押し込もうとします。しかし、その同修が相変わらず執着していると、私はいらいらして、大法修煉に対しても疑い、三つのことをすることにも影響しました。人に執着心があることに、なぜ私がこんなに落ち込むのかずっと悩んでいました。今やっと分かりました。同修の表れは私の根本的な執着に触れており、この執着が私の精進を妨げているのです。

 この執着は私の悟りを妨害し、さらに自分自身のいわゆる「人としての道理」や「大法弟子の原則」をもって人に要求しています。外に向かって探し、自分の意思を人に押しつけたため、次第にトラブルが続出し、心が大きく傷つきました。

 「人間は世間にあって多くの観念を形成し、それに振りまわされ、あこがれのものを追求しています。ところが、人間はこの世に来て、因縁で人生の道と人生の中の得失が定められているのですから、どうして人間の観念で人生の一歩一歩を決められるものでしょうか? ですから、それらのいわゆるあこがれと願望も、永遠に叶えられることのない、苦痛を伴う執着の追求となっています」(『精進要旨(二)・円満成就に向かって』)

 常人の一生は因縁関係により歩む道と損得が決められているため、私の誠実と善良により皆の道徳が高尚になり、みんなが人のために尽くすように変わることにはなりません。同修の修煉は、業力の多少、関門の大小、執着の強弱などが異なり、道も師父に按排されており、それぞれが違うため、私の期待通りになるわけがありません。

  異なる次元に異なる法があり、異なる次元にいる同修の修煉に対する法があり、私の悟りに従うことはありえません。同修に不足が現れることは、それはまさに修煉の中で自分の執着をなくすところであり、同修が法を離れていると決め付けて、同修の修煉状態がよくなく、さらにこの執着によって迫害に遭う恐れがあると推測しても駄目なのです。この推測自体が旧宇宙の理を認めているのです。

 同修の執着に対して私がするべきことは、慈悲に包容してあげて、無条件に内に向かって探し、善意を持って法理上で切磋することです。向上する速さは同修の問題であり、師父が見守っておられます。私が焦って落ち込むことは、自我に執着している私心の表れです。これでは同修にプレッシャーをかけたうえ、自分の修煉も向上していません。

 「最も高い真理」を追求することへの執着は、ずっと私が落ち着いて修煉することを妨害しています。同修と切磋するときに静かに内に向かって探すこともできず、だれそれの是非を論じたくなり、誰の悟りが最も優れているかばかりを論じてしまいます。次第に、大法の本を読むことより明慧ネットの文章を読むことが多く、自分の内に向かって探すことより同修の切磋を聞くことのほうが多く、同修の人心や同修の状態に左右されて、時には常人の理屈に曲げられてしまいます。これは完全に内に向かって探し、心性を修煉する原則に背いています。今やっと分かりました。本当に危なかったのです。

 修煉の最初のころ、私は若くて仕事も順調で、夫と人生観が違うためずっとトラブルがありました。夫の私心、金次第という心を軽蔑し、夫の粗暴と固い観念に面して本当に理を論じられず、どうしようもなかったのです。この状態で私は大法の修煉を始めました。それから、自分はやっと本当の家を探し当てたと感じて、傷ついた心が大法弟子の高尚で和やかな雰囲気に溶け込みました。これはよく言えば、根本的な執着の反映です。しかし、修煉したばかりの私はまだまだ理解しておらず、大法の法理を自分の人としての道理と勘違いして、修煉の中に人生の真理への追求を混入しました。

  まだここまで悟らないうちに迫害が発生しました。それからの私は、この根本的な執着を持って試練にぶつかり、修煉と「良い人になる」ことの違いを理解することができなかったのです。この心理の下で私はずるい考えが浮かび、表面だけを常人に符合させ、心は変えないことにして、邪悪に「保証書」(修煉しないこと)を書いて自分の修煉に深刻な汚点を残しました。

 最近、ずっと自分の悟性が低いとため息をついています。この執着心を放下しなければ、人の観念を前にして、大法の法理をはっきりと見ることができず、向上もありません。まだ私と同じように根本的な執着を理解していない同修に、大法修煉の目的を考えて、さらにこの根本的な執着をなくそうと言いたいのです。最後の道を正しく歩み、法を実証して人を済度したいと思っています。

 個人の次元に限られており、不足のところはご指摘ください。

  2010年2月11日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2010/2/6/217618.html

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