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善を修めることについて


文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、私の修煉状態はよくありません。同修とトラブルを起こしたり、文句を言ったりして、心理状態が安定せず、さらに大法を実証することにまで影響が及びました。先日の夜、私の家で同修と言い争いになり、夫(同修)も私に向かって、深夜まで怒りました。その日、すでに疲れ切っていた私は、内に向けて探そうと思いましたが、夫がずっとブツブツ言い続けていたため、私は「私が死んだら口を止めるの?」と思わず言葉に出してしまいました。

  翌日は金曜日で、身体の状態もよくなく、昼から夜までかかって、『明慧週刊』を作って、少し元気を取り戻しました。その後の数日間は、また元気がない状態が続き、心も体も苦しみました。信頼できる同修と交流して、少し精神状態がよくなったと感じましたが、また翌日、その同修と交流するとき、いきなり同修からいろいろなことを非難されました。彼女が言ったことは事実とずれがあると思い、私はとてもショックを受けました。彼女は善の心を持たず、説教ばかりしているとそのとき感じました。

  しばらく落ち着いて考えました。ある日突然、心が開いたように、相手は私の鏡だと悟ることができました。かつて私は年配の同修をとても非難したことがあります。同修の立場にたって理解しようとせず、同修とトラブルを引き起こしました。しかし、自分の指摘は正しいと思いこみ、善の心を持たず、その態度はきっと同修を傷つけたと思います。最近の自分の言動をふりかえってみると、常に同修の弱点ばかりを探していました。例えば、誰かの学法が少ないとか、誰かの発正念が少ないとか、誰かの修煉状態が悪いとか、誰かが器用でないなど…。

  しかし、同修は、大法のため、私の欠点を我慢して、いつも大法のことに協力してくれました。この1年、私はますます多くの項目を1人でやれるようになり、次第に協力してくれた同修を大事にしなくなり、常人の顕示心が出てきました。自分ができる人間だと思いがちになり、ほかの人を軽視し始めました。さらに、人の師になりたがり、度々同修を非難しました。夫が私に「あなたがほかの人の弱点だと思っているところは、あなた自身がすべて持っているのではないか」といつも言っていました。私はその言葉が大嫌いでした。いま、振り返ってみて、自分は本当に「崖っぷち」の状態にいました。

  私が以前患っていた心筋炎は、大法を修煉し始めた初期は改善できたのに、最近再び症状が現れてきました。私は、法理はよく分かっているものの、自分をよく修めていないことと、執着心をそのまま放任していることが、修煉の道での漏れで、邪悪はその隙に乗じて「病業」のように現れていると気づきました。その「病業」の邪悪が私に対する一つの迫害だと認識できたとき、その症状はすぐ改善しました。

  考えれば考えるほど、私は修煉者として根本的な弱点があります。つまり「善」という念が足らず、その結果いつも、よくない念や修煉者らしくない行為をしてしまいました。師父は「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」(『転法輪』)とおっしゃいました。

  しかし、私は師父が修煉者に要求された通りにやらず、知らないうちに自己中心になってしまいました。大法の仕事を行うとき、一緒にやる同修に対して、修煉の状態がよい同修や信頼できる同修を選び、安定していない同修を避けました。同修がよく修めていないところを、善意を持って指摘するのではなく、度々過激な言葉遣いに走りました。師父の法を学んでから、特に魔難の中にいる同修には善の念で対処すべきだと悟ることができました。

  近頃、自分は魔難の中で、同修から非難されて、落ち込んでいました。昨日、同じ経験をした同修と偶然に会いました。魔難の中にいて、同修の慰めと激励がほしいと共感しました。ですから、同修は誰でも魔難の中で、助けを望んでいるのであって、非難と説教はいらないのです。慈悲のパワーをもっているならば、非難と説教は傷つくものではないと私は認識しています。

  実は現在、法理がはっきり分かっている同修は少ないのです。一部の同修は長期にわたって、自分を厳しく律しておらず、安逸心を求めているため、いろいろな問題を抱えています。「悟ることができたが、やり遂げることができない」という状態に留まっている同修が多いのです。それらの同修に対して、法理の面で教えるより、簡単な言葉で善意の激励がより効果的だと思います。一つの例を挙げます。

 同修Aさんは、長期に「病業」の状態にある同修Bさんを「指導」しようとしました。Bさんの家に行きましたが、Bさんの訴えをすぐにうるさがって、「指導」しようと思いましたが、すぐに自分の考えが間違っていることに気がつき、考え直して聞き続けました。2時間近く話を聞いたあと、訴えていたBさんは意外にも元気になり、身体の悪い症状はすべて消えたというのです(当然、すべて同じようなことが起こるとは限りません)。

  私の周りに同修Cさんがいます。Cさんは「病業の関」をなかなか乗り越えられず、度々「病業」が現れます。Cさんは決断ができない性格で、ほかの同修と会う度に、自分のことを言い出します。同修たちに数回「指導」されても、効果があまりありませんでした。交流するときにも、Cさんに対して、いろいろ「指摘」をしました。Cさんはショックを受けて、ますます修煉状態が悪くなり、病院へ行きました。当然、すべて同修たちの責任とは言えませんが、我々全体が慈悲の善念を持っていれば、Cさんに巨大なパワーを与え、Cさんはその関を乗り越えられたかもしれません。

  ここで5、6年前のことを思い出しました。このCさんは知らずに私を助けたことがあります。当時の私は、色欲の執着心をなかなか取り除くことができず、とても悩んでいました。Cさんは私の家に来て、私はCさんに私の悩みを言わずに、別のことについて交流しました。そのうちに、私の執着心は薄くなっていき、全身リラックスできました。実はこのCさんは恐怖心が少なく、純情な心を持っているのですが、ただ「病業の関」をなかなか乗り超えられないのです。

  大法の活動を同修と組んでやるときに、自分の善の心が不十分なため、同修の立場にたたず、人を優先せず、闘争心が取り除かれず、いろいろなトラブルを起こしました。同修が私にあのように対処したことは、私自身に問題があります。自分をよく修めず、自分の空間場の中に、汚くて悪い物が存在しているため、外に向かって探し、修煉者の状態になれないのです。当然「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」(『転法輪』)の次元には達しません。

  修煉して数年が経ち、悪い状態を長引かせていましたが、やっと自分には善の念が足りないと悟りました。この文章を書くことで、自分を目覚めさせ、必ず善意を持って同修と衆生に対処します。

  不足なところがあれば慈悲深くご指摘をお願いします。

  2010年2月7日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/1/22/216694.html

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