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「他人の執着」に執着しない

(明慧日本)きょう私はA同修と交流する中で、自分の大きな執着に気づきました。それは他人の執着に執着することです。 

 A 同修は、たえずB同修の執着を言い、「B同修は誰の家に行ってもかまわずに礼儀に従わない、いつも言っているのに聞かない」と言います。その時私は「それは自分の心に何か放下出来ないことがあるのではないか」と言いました。やはり、彼女は自分の執着を見つけて「他人の執着に執着する」ことに気づき、自分のその心を放下することが出来ました。それにともなってB同修にも変化が生じました。

 よく考えてみると、私も同じ執着があるのです。特に2人の協調人が迫害に遭ってから、協調の人手が足りない情況になり、私のこれらの執着は強烈に顕れてきましたが気がつきませんでした。同修に対して寛容で、理解し合い、不満を持ってはいけないと思っただけでした。しかし、「誰々に恐れる心がある」とか、「表に出て来ない」とか、「情を重んじる」とか、「何もしない」とかをいつも口にしました。表では他人のために言っているようですが、実は自分の執着心を隠していました。

 本当に他人のためなら、他人を非難するのではなく、人に愚痴をこぼすのではなく、慈悲の心で対処すべきです。師父は「強制しても人の心は変えられない」(『精進要旨(二)』)とおっしゃいました。これは私達に、「修煉するには、それらの心を放棄しなければ、変わることが出来ない」ことを悟らせています。

  他人の欠点に執着せず、その心がなければ、それらの事も顕れないのです。

  正しくないところは、慈悲の指摘を願います。

  2010年2月23日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/2/18/218370.html

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