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「自分に確信が持てない」状態を根から取り除き、自分が大法弟子に相応しいことを心から理解する(二)


文/米国の修煉者

(明慧日本)2007年、『九評共産党』のフォーラムを開催するため、ポーランドに行きました。ポーランドでは初めてのイベントで、会場はポーランド議会でした。準備段階で、多くの公の仕事をこなさなければならず、多くの人々との会合や招待の業務が重なりました。共産主義を不法とする国は世界に2カ国あり、その1カ国がポーランドであるため、私たちは、どのような妨害も除去したいと思っていました。準備には1カ月半かかりました。
 
 仕事を始めたばかりの時、体のいろいろな部分に不気味なできものが現れました。できものからはどんどん膿みが出始め、醜くただれました。しばらくすると、毎日の仕事で着る、たった一枚のスーツと数枚のシャツがダメになってしまわないように、体の各部分をガーゼで覆わなければなりませんでした。ほとんどの場合、傷口を隠すことはできましたが、指の爪が2枚剥がれ始めた時は、隠すことが難しくなりました。
 
 「内側にある腐ったもの」が出てきたと感じました。徳に転化しなかった業力が出てきたのです。修煉の最初の5年間、きちんと座禅が組めるようにならなかったため、この苦しみは、「返済」だと思いました。
 
 業務が始まって数週間経ったころ、夕方、体中にひどい痛みを感じるようになりました。痛みは一晩中続きました。しかし、朝には和らいだため、睡眠をとらずに疲労していましたが、翌日の公の仕事をこなし続けることはできました。痛みは毎日、毎日続き、終いには正念を発するためにまっすぐ座ることもできない痛みとなりました。
 
 この夜のことは、はっきり覚えています。痛みに耐えきれず、体をくの字に曲げていました。その時近くにいたポーランドの修煉者が部屋に入り、正念を徹夜で発し続けました。強力な正念のおかげで、すぐに私も正念を発し、痛みを取り除くことができました。この時初めて、この痛みとただれは妨害であることを悟りました。衆生を済度することへの妨害だったのです。しかし、ただれの状態は続きました。
 
 後日、妨害と修煉過程で通過する苦しみとの違いを悟ったという、これらの出来事についての修煉体験を書いているとき、下書きを読んだ修煉者が、「まだ、自分は苦しむに値すると思っている、という印象を受けるわ」と指摘してくれました。もう一度自分の原稿に目を通したら、この修煉者の言う通りだと自分でも驚きました。そして大きなことに気付いたのです。「旧勢力に大法弟子が衆生を済度することを妨害する権利はない。私たちの修煉を助ける役割を果たすにしても、いかなる理由を以ても、旧勢力の按排は排除しなければならない」と悟ったとたん、24時間で全てのただれが乾き、皮膚から剥がれました。苦難は去りました。
 
 あの夜、痛みを乗り越えることができたのは、修煉者全体の正念だったということに、最近になって気付きました。師父への深い信念、そして、私に対する深い信念でした。彼らの信念は、私が自分に対して持っていた信念より深いものでした。私たちは皆、素晴らしく、力強く、師父の真の子供であり、何でもできる、という正念が私を救ったのです。
 
 それからかなり後になって、私は自分に厳しすぎた、自分の執着や自分が間違えたことを見つめ過ぎていた、ということを悟りました。師父が求めるようにすぐに前に進まなかったのです。そして、真に師父に助けられたということを理解しました。この時点では、まだ知的レベルで法を理解しており、心の底では、自分は失格者であり価値がないと感じていました。しかし、最初の重要なステップでもありました。
 
 『転法輪 (巻二)』の 「何の為に見えないのか」で師父は次のように書いておられます。
 
 「人は迷いの中にあって、多くの業を造り、本性まで迷ってしまったら、どうして見えることができるのでしょうか?まず悟りがあって、それから見えるのです。 心を修めて業を滅し、本性が出ればやっと見えるのです。しかし、上士は見えても見えなくても悟りによって円満成就します」
 
 (続く) 
 
2010年11月06日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/9/8/229347.html

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