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協調の難しさについて私の認識


文/海外の大法弟子

(明慧日本)大法弟子同士の協調の問題について、私の認識をお話したいと思います。師父は最近の説法の中で、大法弟子がより良く協調するように、とおっしゃいましたので、おそらく各地において、少なからぬ協調の問題が存在していたのだと思います。
 
 海外の大法弟子がプロジェクトを行なうにあたり、その協調の難しさについて、私はこのように考えます。大法弟子はほとんど仕事をしており、または仕事をしていました。それではどうして会社において、上司が指示した仕事について、文句をひとつも言わず、まじめに仕事をこなすことができるにもかかわらず、大法のプロジェクトになるとできないのでしょうか? ある同修は言いました。違うのは当たり前のことで、会社は給料を支払ってくれる、しかも上司の命令なので、従わなければ解雇されます。大法のプロジェクトとなると、皆が使命として行い、給料ももらえません、もらったとしても金額が少ないのです。それから、皆が同等の立場でプロジェクトを行い、幹部とか、上下関係もなく、上に立つのは師父だけなのです。一部の同修はこのような考え方を持っていると思います。
 
 そこで、私は次のように考えました。大法を実証するプロジェクトは収入がなく、それなのに、私たちはなぜ参加しているのでしょうか? 参加した目的は何でしょうか? それは衆生を救うためであり、自分の先史の誓いを果たすためです。それでは、これらの目的は金銭より大事ではありませんか? だから、私たちは自発的によりよく行うべきではありませんか? もしかして、常人のように解雇されるから、まじめに仕事をするというのですか? 高圧的に管理されれば、効率よく仕事ができるが、そうでなければ、仕事ができないとでも言うのですか? あなたは中国で長期にわたる共産党文化での慣れ親しんだ慣習、圧力がなければ、監督されなければ、好き勝手にやるとでも言うのですか? 一人の大法弟子として、このことについて真剣に考えるべきではありませんか?
 
 さらに、このように言う同修もいます。中国の常人は、会議のとき幹部の言ったことにすべて賛成するが、会議が終了すると、裏でああでもない、こうでもない、このことは賛成するが、あのことは反対だと話すのです。会議で決めたことを実際に進めるとなると、皆は真剣に取り組まず、結果として失敗するのです。自由社会においては、会議中は白熱して議論を行い、時には喧嘩することもありますが、しかし会議で決めたことは、みなが尊重して協力し合い、そのことを成功させるのです。大法弟子は個別の地区において、会議中は激しく自分の意見を主張し、終わってからも自分の意見を主張し続けるのです。中国または外国の会議の欠点を両方備えているのです。
 
 常人の中に多くの道理と経験があり、私たちが大法を修煉したからといって、それらは旧宇宙の理だから、すべて放棄しなければならないというのではなく、良いものは取り入れてもいいのです。一部の大法弟子は、大法を修煉してから何も気にしなくなり、仁義礼智信とか、温厚、善良、尊敬、節約など論外となってしまいました。口を開けば、「真善忍」だと言い、「真善忍」さえも言わなくなった同修もいます。物事に対して、法を持ってはかるのではなく、自分の観念、もしくは人心を持ってはかるのです。これでは正しい行いといえるのでしょうか? あなたは常人の中で修煉していて、仕事や生活の中でこの常人レベルの法理に適していなければならず、あなたはこのレベルの法理に束縛されるのです。
 
 師父はこのようにおっしゃいました。「大法弟子の修煉は、最大限に常人社会の形式に符合しての修煉であり、最大限に常人の形式に符合しての修煉でもあります。」(『米国首都法会での説法』)私たちの心性が高く、心理状態が正しければ、最も良い方法が見つからないときは、常人の数千年来の経験を引用すれば、間違いではありません。もし、その経験が大法に適していないところがあるとすれば、行う過程で修正すればいいのです。もちろん修正できる能力があるときの話であり、その能力がなければ、別の適した経験を探せばいいのです。邪悪な中国共産党のように、盲目的になって理智を失い、何か旧制度を打ち倒し、旧社会をぶち壊すといったようなことをしてはなりません。これは、私たちが協調できていない一つの要素といえます。そのほか、プロジェクトの責任者を含めて、スタッフのみなが人類社会の経済規律制度を理解していないため、またはプロジェクトを進める手段を間違ったことによって、プロジェクトを効率よく進めることができず、さらに協調を悪化させたのかもしれません。
 
 これらの問題の中から、派生する以下の問題が存在すると思います。プロジェクトの責任者は、プロジェクトを始める当初、人々を救うという目的をもって同修たちに呼びかけ、プロジェクトを立ち上げました。とはいえ、彼はプロジェクトの創始者とも言えないところがあり、それは、プロジェクトの立ち上げに際し、同修のみなが金を出し合っているからです。しかも、皆が相談して決めたことなので、このプロジェクトは誰のものとも言えないのです。そして、発起人は人々を救うことだけしか考えず、プロジェクトの規模が大きく成長するにつれ、彼は経営に太刀打ちできなくなりました。その理由は、彼は経営と管理が不得意であるからかもしれません。最近になって、師父は主要責任者について説法してくださいました。そのため、皆は彼の指示を聞いてくれると思いますが、責任者のあなたはその責務を全うできるとは限りません。このような難しさがあります。実はそれほど難しいことでもありません。常人の会社はCEO(最高経営責任者)という職位があります。あなたに経営する能力がなければ、CEOを雇って経営してもらえばいいと思います。その人が会社の業績を伸ばすことができなければ、あなたの権限で別の人を雇えばいいと思います。
 
 トラブルは必ずあり、問題も必ず起きます。師父がおっしゃったように、「佛法には果てがないからです。佛法には果てがないというのはどういう意味でしょうか。方法がいくらでもあり」なのです。私たちは長年修煉してきましたので、知恵がかなり多いと思います。おそらく人為的に、または執着心によって遮られたかもしれません。大法弟子として、これらの問題を解決することができると、私は確信しています。なぜならば、私たちは使命を果たすために、ここに来たからです。
 
 急いで書きましたので、不適切なところがあればご指摘ください。この文章を書いた目的は執着心を見出したいからです。合掌。
 
2010年12月18日


(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/12/17/121982.html
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