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内に向けて探し、協調する中で昇華する(二)

(明慧日本)このたび交流文章の投稿時期になりました。同修は私に、投稿するよう勧めましたが、私は書けないと返事しました。私の最近の修煉状態があまり良くなく、自分に問題があると感じていましたが、問題の所在がどこにあるのか分かりませんでした。そして私の心に秘めていた怨みをある同修に話しました。この同修は電話の中で長時間にわたって私と交流してくれました。その同修は第3者として私の問題の所在をよく指摘してくれました。交流の中で、彼女が話した具体的なことを、私は聞き入れようとしていませんでした。彼女はそれを感じて、私の一つひとつの執着心を指摘し「問題を解決する唯一の方法は、あなた自身に存在する問題を探すこと、そして心を落ち着かせて、矛盾が生じている同修と率直に交流することです」と、教えてくれました。
 
 同修との交流で私の心は打たれました。その後の数日間、「実は、皆さんが乗り越える関はほかでもなく、皆さんの魔性を取り去っているのです! しかし、皆さんはその都度各種の口実をもって、あるいは大法をもってそれを覆い隠し、心性を向上させることができず、機会をその度に逸しています。皆さん、ご存知ですか? あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです。」(『精進要旨』「再認識」)を私は繰り返し暗唱していました。
 
 師父の経文と自分を照らし合わせて、私は大法のことを行うことで自分の執着心を覆い隠していると気付きました。私は師父が2007年に豪州の学習者に対して説法したDVD繰り返し見て学法しました。心を静めて師父の説法を聞きますと、師父は明白な法理を説いてくださっていましたが、私は法理のとおりにできていませんでした。私の理解では、師父は説法の中で、ほかの修煉者が良く行っていないとき、私たちはその修煉者に同情しなければなりません。相手の立場に立って物事を考え、相手を叱責してはならず、自分の観点を押し付けてはなりません。この法と照らし合わせてみると、私は間違えました。本当に間違えました。師父のおっしゃったことを聞いていませんでした。
 
 私は先日の、同修との不愉快な交流を思い出しました。交流する前は自分に言い聞かせ、「心を落ち着かせて、慈悲を持って相手と交流しなければなりません」と思っていました。しかし実際は相手を説得しようとし、自分の意見を受け入れてもらえば、慈悲を持って相手と交流するという態度でした。これは目的があっての慈悲であり、相手は善意を真に感じ取ることができません。私は真に自分の問題を見つめ、内に向けて探していないため、同修に対して自分の親友のように心から接していませんでした。問題は自分の身から発生しているにも関わらず、私は師父の法理をもって自分を修めたのではなく、相手を修めようとしていました。
 
 私は、自分のもう一つのよくない心を発見しました。それは自分を満足させることのできない同修を見ると、すぐにマイナスの印象をもってしまうのです。このマイナスの物質は脳内で増幅し、甚だしきに至っては仲の良い同修に自分の鬱憤を発散して、自分が執着している物質を同修に伝えてしまうのです。もしその同修が他の同修にこの良くない物質をさらに伝えてしまえば、良くない場がさらに拡散してしまいます。もし多くの同修が自分が気に入らないこと、気に入らない同修のこと、気に入らない協調人のことを話せば、その場は正の場になることができるのでしょうか? 『神韻芸術団』の公演に対して新たな段階へと突破することができるでしょうか? しかし私はそのよくない場を作っている1分子なのです。私は同修の問題を指摘するとなると、休みなく次々と言葉を発し、最後には「私は今になってシドニーの修煉環境が身にしみて分かりました、だから師父はわざわざ豪州の弟子に説法したのです」と話すのです。師父は豪州の修煉者への説法の中でこのような法理をおっしゃいました。中国人が2人会うと、すぐに心を閉ざしてしまいます。このことを私に指しているのではありませんか? もし豪州の修煉者に不足があるとすれば、私はまず自分にどこに不足があるのかを考えるべきです。師父はおっしゃいました。「誰も他人を責めるまでもなく、みんながそれぞれ一役買っているのです。ですから誰でも修煉すれば必ず苦難に遭遇するのです。」(『転法輪』)「修煉の中で捨てなければならない一つ一つの心は、みな一つの壁であり、そこに横たわっていて、あなたの修煉の道をさえぎっています。」(『精進要旨』「環境」)
 
 私はだんだんと目の前に道が引けたように感じました。なぜならば、それは私が自分の内に向けて探し、やっと自分の問題を見つけたからです。夜、マスコミグループでの学法の際、以前交流して矛盾が生じたことのある同修もいました。私は彼に謝りました。「今まで私は良く行っておらず、師父の法に基づいて行っていませんでした」このとき、私の目は涙に濡れていました。そして私はその同修に近寄り、もう少し交流しようとしましたが、彼の目も涙に濡れていました。私が内に向けて探したことで、私たち2人の心は一つになれたのです。
 
 今回のことで私は内に向けて探すことができるようになりましたが、しかしその後、問題に出会うと、怨みの心が時々現れることがあります。このようなときは自分に言い聞かせるのです。「いいでしょう、心のバランスが取れなくなったのは、私に修煉のチャンスがやってきた、絶対に逃さないぞ、きっとまた取り除いていない執着心が現れたので、この不純な心を捕まえて放さず、取り除くのです」
 
 ここで私は、長い時間を費やして私と交流し、慈悲を持って私の問題点を指摘してくれた同修に感謝します。その同修の手助けがなければ、私は難関を乗り越えることはできなかったと思います。今後、豪州の同修はお互いに助け合い、修煉の中である面においてよくできていない、また悟っていない、或いは言葉でほかの同修に傷つけたりするような同修を見て、その同修が早く難の中から出られるように、ぜひ善意を持って指摘してあげてください。そして豪州の同修は一体になり、内に向けて探す環境を整えることができれば、私たちはカナダ同修のように、良い修煉環境、正法の形勢を創り出すことができます。そうなれば師父に満足して頂けます。
 
 師父に感謝いたします!同修に感謝します!
 
 (完)
 
 (「2011年豪州法輪大法修煉交流会」における発表原稿) 
 
2011年06月10日

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