【明慧日本2024年11月27日】明慧編集部が主催した第21回中国の法輪功学習者の修煉体験交流会では、11月に43篇の修煉体験文章が発表されました。中国本土の法輪功学習者たちは、文字を通じて世界中の同修たちと交流し、さまざまな環境の中で心を修め、向上していく貴重なプロセスを共有しました。
日本の学習者はこれらの記事を読んで深く感銘を受けました。中国の同修たちが法に対する深い理解を持ち、厳しい環境の中でも内に向けて探し、修煉を高めていることを感じ取ったと言います。また、比較的安定した環境で修煉している自分自身の安逸や不足している点にも気づき、これからはより一層の緊迫感と使命感を持って修煉に励み、最後まで精進し続ける決意を新たにしたと述べています。
筆者の信念の強さが顕現された瞬間を文字として読めた
川村さんは「中国法会|26年前の肝硬変から肝臓癌への転移から語る」を読んで次のように感想を述べました。
筆者は全くの無罪でただより良い人として道を見つけ、真・善・忍に沿って生きているだけで追われる立場となり、前世からの借りたものを返済するため物乞いまでして、大苦難の中で一時も法から離れず多くの衆生との良い縁を繋いで三退に導き、また多くの真相を伝えてきました。
このような境遇に置かれ、結果は分かっていても、はいやってみなさいと言われてもなかなかできるようなことではありません。弁護士との会話を読み、こみあげるものがありました。私はどれほどの事をしてきたのか? または逸れてばかりではなかったか? 修煉者として自信をもって微笑むことができるのか? とても自分が小さく見え、恥ずかしくなりました。
筆者の信念の強さが顕現された瞬間をこのように文字として読めるということは私にとっての大義です。 堅固な決意と善行は、その場が暖かな光に満ちて人の心を解すのだと教えていただきました。一難去ってまた一難があり、私は内に向けて探すことを途中で止めたり諦めている自分に気付きませんでした。
筆者は指を怪我して、血が止まらない状態で悟り、またしてもこの方の揺るぎない信念を貫き、多くの同僚に大いなる大法を目の当たりにさせました。最後に、筆者は「どれほど難しくても私は師父の道を堅固に歩み続け、私の使命を果たします。法を正す師父について衆生を救い、前世の誓いを果たし師父と一緒に家に帰ります」と書いていました。
同修である筆者を心から敬い、心から感謝を述べたいです。はじめから全てを放棄しており、真の意味で他が為に、師父の下で大法に同化して修煉をしており、今は渡ることのできない近くて遠い場所ではありますが、このように素晴らしい同修の修煉体験を読ませていただけることに感謝いたします。
迷いが断ち切れました。現在私は消業の只中にありこの感想を書くにあたって、ある同修から今は学法を優先してくださいと諭されました。私も三つのことを強化し、門を叩いた当時を思い起こし、貫こうと思います。師父に感謝申し上げます。そして、この感想を書き終えた時、私の体はすでに完全に回復していました。
最後に、川村さんは「師父に感謝いたします。 翻訳、校正に関わった全ての同修に感謝します」と述べました。
慈悲のエネルギーが自然に溢れ出る状態を目指したい
山川さんは高校生の時に『轉法輪』を初めて読みました。「中国法会|迫害に遭う同修を想い、助ける」を読んで、次のように述べています。
ある同修は壮絶な拷問を受けて、意識が朦朧とする中で、同修が面会に来ると、急に正念を取り戻したり、刑務所近くで同修達が発正念をすると、警官達の態度が和らいだりすると書かれていました。やはり修煉者の慈悲と正念は非常に強いエネルギーと作用があるのだと感じました。
家族や他地区の同修に呼びかけると、すぐさま皆で一緒に発正念をする体制になれるのは、各自が個人修煉において執着や私心を少なくしているため、必要な時にさっと協調が取れる状態になるのだと思いました。
「中国法会|慈悲の力を感じ悟る」を読んで、筆者は「私は以前、慈悲の力を認識しませんでした。トラブルや迫害に直面したときは、いつも常人の道理で物事を捉えていたため、自然に争いや恨みなどの執着心が生じていました」と書いており、まさに私も以前は、この筆者と同じ状態で、正しさにこだわっていました。
筆者は警察官、同修、常人という3つの事例を通して、人と接する過程で自分の人心や執着に気づき、だんだんとそれらを減らすことで、心から相手のことを純粋に思う慈悲の心が出てきたと書いていました。とにかく自分を見て自分を変えていくと、相手も変わり、衆生済度の仕事もよりスムーズに進むことを私も実感していますが、筆者のように、慈悲のエネルギーが自然に溢れ出る状態を私も目指したいと思いました。
慈悲心、善の心を修めるように努める
藤田さんは「中国法会|26年前の肝硬変から肝臓癌への転移から語る」を読んで、このように感想を書きました。
警察から逃げるために行脚することになり、想像を絶する苦労をしながら、ようやくたどり着いた親戚の家で、みんなが寝たあと、外で煉功する姿に感動しました。いつもそばに師父がいて、自分を見守ってくださっていると思い、どんな状況の中でも、自分かやるべきことをやる、筆者の純粋さに、涙が出ました。
中国人同修は不当に逮捕されても、中で修煉をし続け、固い意志を持ち、正念を貫きます。このことは、本当に素晴らしいし、師父の認める大法弟子だと思います。最後の文章に「今後どれほど修煉の道が遠く、どれほど難しくても私は師父の道を歩み続け、私の使命を果たします」と結んでいるところが、心に響きました。
「中国法会|慈悲の力を感じ悟る」の中では、筆者が子供の頃から、一人が好きで同修に対しても共に向上したり、助け合ったりしない筆者が、法を学ぶ中で、法理を悟り、私心がなくなり、解決が楽にできるようになったと書いてあります。
私も一人のほうが楽で、煩わしくないと考えていたので、よく似ていると思いました。しかし、善の心をおさめるようになった時、気にならず、ただ彼らを救おうという考えしかないので、簡単になると言っています。私も、もっと慈悲の心、善の心を修め、誰にでも優しく、私心を持たないようにしたいと思いました。そのためには、自分を厳しく律し、修煉を成し遂げることを誓います。
師父や法に対して敬意を持つべき
最近、煉功や発正念のペースが落ちているという阿部さんは、「中国法会|私の目が回復した」を読んで感銘を受け、次のように述べました。
筆者は、煉功していない自身のことを「師父に対しても、法に対しても不敬ではないか」と思い、立ち上がりました。
私は、師父や法への敬意について考えたことがありませんでした。師父や法を信じようとすることはあっても、敬意について気に留めていませんでした。そして今その敬意を感じれば、心は自然と謙虚になり、何かを求める心を手放しやすくなっているように思いました。これからも敬意を大切にしたいと思います。