文/陝西省の大法弟子
【明慧日本2024年11月14日】子供の頃から、自分は孤独を好む人間だと気づいていました。人と接触することを好まず、一人でいるのが好きで、他人に縛られることを嫌い、世間を離れて山中で修行したいとさえ思っていました。成長してからも、結婚せず、子供も持たず、同年代の人たちの中で異端のように振る舞い、周囲の親族や友人にも冷淡で、同修に対しても共に向上したり助け合ったりすることを考えませんでした。最初はそれを自分には「情」がない証拠だと考え、しばらく満足していました。しかし、ここ数年、自分には善がなく、なかなか修めないことに気づき、法を正す時期の大法弟子として、人と関わらずただ独りで修煉し、他人を助けたくないというのも一種の私心の表れであると認識しました。法を学ぶ中で、師父が「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」(『轉法輪』)と教えてくださいました。この法理を悟ってから、ここ数年、他人と接触するたびにまず相手のことを考えるように努め始めました。すると、徐々に私心が多く取り除かれたことに気づきました。同時に、話す言葉のエネルギーや正念の場も大きくなり、以前は解決が難しいと感じていた多くのことが、はるかに容易になりました。
「610」警察官に対して慈悲の心が生まれてきた
2年前、不法に出国制限されていることが分かり、「610弁公室」に解除を求めに行きました。私が初めて慈悲の心が生まれてきたことを実感したのは、警察を訪れる途中でした。当時、私は「正念と正しい行いで警官らを救い、彼らに大法の罪を犯させない」と考えていました。しかし、恐怖心と警察への恨みの心もあり、全く慈悲心を持つことができませんでした。
初回の交渉では、私は心の中でずっと「師父、助けてください」と大声でお願いをしていました。すると突然、強い正念の場に包まれ、恐怖や恨みは消え、生死も恐れず、神のような状態になったように感じました。最初は「あなたのところに行く」と脅す「610弁公室」の警察官は、隠れて出てこなくなりました。
それは師父の加持によるものであり、私自身がその境地に達したわけではないと分かっていました。帰り道で、私は非常に落ち込んでいました。「自分はこれほど修煉が足りないのに、師父は常に私を守ってくださっている。しかし、私は成就できないかもしれない。師父の慈悲深い済度に報いることができず、私の世界の衆生の期待に応えられなくて申し訳ない。もし本当に成就できなかったら、その結果は自分で受け入れるしかない。私が人を救う中で師父が与えてくださった威徳は、すべて私の世界の衆生に捧げて、彼らが生き延びられるように」と思った瞬間、全身が震え、涙が溢れ出しました。それは私自身の涙ではなく、私の世界の衆生が感動している涙であることをはっきりと感じました。体がエネルギーに包まれ、言葉で表せないほど素晴らしい体験でした。しばらくして、それから慈悲の心が生まれてきたと気付きました。
それ以降、「610弁公室」や派出所の警察と交渉するたびに、私は私心や恐れる心を捨て、慈悲の心を生むことができるかどうかの試練でした。同時に、毎回師父のご加護が感じられ、無事に帰ることができました。警察官らと接触する中で、師父の正念の場の加持を受けて、最初は彼らに対して緊張した気持ちを抱いていましたが、最後には心から彼らを救いたいと思うようになりました。この過程での鍵は、私が大法に従って行い、自己を放下して他人のために考えることができるかどうかにかかっていました。
警察官らとの交渉の中で、私は、彼らが大法に対して罪を犯していることを未だに分かっておらず、将来破滅に直面するとかわいそうに思いました。私が慈悲の心で話をすると、彼らも良心を呼び覚まし、悪い事をしたと自覚し、上司に私に対する不法な出国制限を解除するよう申し込んでくれました。その慈悲の場の影響で、彼らは真摯で礼儀正しく私に接し、心から迫害に加担したくないという気持ちを示し、私の遭遇に同情してくれました。
その時点では私の出国制限問題は解決しませんでしたが、その後、彼らの多くは私に対する迫害に関わらなくなりました。彼らが何らかの変化を遂げ、私を助ける心と行動を持ったなら、最終的な結果が変わらなくても、彼らは大法弟子への迫害によって生じた罪をいくらかは消すことができるだろうと思いました。
遅れた同修に対して慈悲の心を持つようになった
法を学ぶ中で、私は自分自身の向上だけを追求してはいけないことに気づきました。周囲で抜け出せない同修たちにも手を差し伸べ、みんなが一丸となって、共に向上することこそが師父が望まれることであり、みんなが共に進んでこそ、もっと多くの衆生を救えるのだと思いました。この数年間、私たちの地域では、多数の協調人が迫害で監禁されたり、死亡したり、全体はバラバラになってしまいました。多くの同修が迫害された後、一度も立ち直れず、家でひっそりと法を学ぶだけで、外に出てこなくなったため、多くの学法グループは解散してしまいました。私は一軒一軒を訪ねて、彼らに私のところに来て集団学法をするように促しました。
交流する中で、私は自分が大法の要求に従い行動することで、次元が高くなり、その過程で感じた大法の素晴らしさを話し、皆が出てきて人々に大法を伝え、他人を救うよう励ましました。最初の出発点は良かったのですが、初めは私の不満の心、嫉妬心、焦りの心、傲慢な心が取り除かれておらず、そのため慈悲の心も生まれませんでした。しばらくすると、トラブルが現れてきました。一部の同修は修煉において長い間怠けており、注意されると強く反発しました。特に、長い間取り除かれなかった執着心について指摘されると、すぐに反応して、「私のことを構わないで、何を言っても無駄だ」と言い、精進する気持ちもなく、常人の執着を捨てようとしない同修もいました。
最初、同修が私に対してこのような態度を取るのを見て、やりきれない思いや挫折感に襲われ、離れたくなりました。しかし、すぐに考え直し、「これは同修の本当の自分ではなく、執着に支配された状態での表れだ」と気付き、心を動かされてはいけないと思いました。
師父は「お互いに協力し合うとき、人心があるから摩擦が生じるのであって、それは修煉者の状態であり、過程です。決して誰それが本当に良くないのではありません。良くできた部分はすでに見ることができず、隔離され、皆さんが見たのは永遠に修煉がまだできていない部分です。しかし、皆さんは慈悲心を持つべきであり、固定した見方で相手を見てはいけません」(『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」)と言われました。
その時、私は自我を捨て、まるでそれが自分に向けられた言葉ではないように感じ、具体的な事から一歩引いて法に基づいて判断しました。同修が落ち着いた後、私は「これらの言葉は本当のあなた自身が言ったものではないと知っています。私は気にしません。でも、あなたに言いたいのは、どのように私を扱っても、あなたが精進するのを諦めません。たとえ1%の希望しかなくても、私は決して諦めません。なぜなら、私たちは自分だけでなく、背後に無数の衆生を背負っているからです。彼らは私たちの衆生であるだけでなく、師父の衆生でもあります。彼らの存亡のために、あなたも精進しなければなりません」言いました。
その言葉を口にした時、慈悲のエネルギーが溢れ出るのを感じました。同修はすぐに目を覚まし、反省の気持ちを示し、真剣に考えていました。それ以降、私たちは互いに励まし合いながら法を暗唱し、恐れを克服して人々に大法を伝え、人を救うようになりました。また、今まで慣れた常人の考え方や行為も学法と交流を通じて正されました。学法グループの人数は徐々に増えてきて、互いに助け合いながら向上し、限られた時間を無駄にせず進み続けています。私たちは、自分たちが負っている責任の重さを知っていたからです。それは師父と衆生の期待なのです。
常人に対する慈悲の心
人々に大法の良さと迫害の実態を伝える過程で、最初は師父が人を救うようにと教えてくださったので行動していましたが、衆生に対して本当の慈悲は持っていませんでした。特に、「三退」を拒否する人に対しては抵抗感が生じ、「もう救いようがない」と感じて、それ以上試みる気が起きませんでした。
私の周りでは若者が多く、出会うことが多いのですが、彼らの多くは無神論者で何も信じず、なかなか「三退」を受け入れませんでした。しかし、私が次第に善の心を修めるようになると、正念の場が非常に強くなり、他のことを気にせず、ただ彼らを救おうという考えしかありませんでした。私は彼らが抱える疑問に合わせて、問題を深く掘り下げて説明しました。師父が与えてくださった智慧により頭が非常に冴えていて、彼らの疑問二一つ一つ答えることができました。ある人は「不思議なことに、あなたが言うことは何でも信じるし、あなたは私を救うために来たように感じます」と言いました。そしてこの間、何人かが大法を修煉したいと言いました。私は、自分が慈悲の心を持っていれば、常人もそれを感じ取ることができ、人を救うことがより容易になるのだと気づきました。
師父は「しかし、法を正されていない生命は以前の宇宙の法理で行動し、それをもって大法弟子を量るのです。大法弟子が自身が認めている基準に達してからはじめて、それらの生命は納得し、大法弟子が妨害されずに向上し、それらを救う資格を持つようになると思っています」、「ですから、大法弟子は自分の道を正しく歩んではじめて、衆生を救うことができ、衆生を救う中で乗り越えることができ、これほど難しいのです。衆生を救うことの難しさはこのように生じたのです」(『各地での説法十一』「二十年説法」)と説かれました。
私は、自分の修煉の次元が高まるにつれ、一部の救うのが難しい生命が、私が彼らを救えると認めてくれたことで、救いが容易になったと気づきました。それから、私は、個人の修煉の状態が人を救う力に影響を与えると分かりました。師父が私たちに絶えず精進するよう促されているのは、まさにこのためで、そうすることでより多くの人を救うことができるのです。
慈悲の力
私は以前、慈悲の力を認識しませんでした。トラブルや迫害に直面したときは、いつも常人の道理で物事を捉えていたため、自然に争いや恨みなどの執着心が生じていました。また、中国共産党の党文化の影響下で、「相手より強ければ、他人は自分を納得してくれる」と思っていました。
しかし、この2年の修煉を通して、慈悲がもたらす大きな力を深く実感しました。その力は、私自身の多くの利己的な行動や態度を変えただけでなく、周囲の人々も慈悲の場の力によって良くなり、善の念を引き出しました。
私たちの修煉はすでに自分自身だけの問題ではなく、無数の生命の存亡にも関わっていると分かりました。修煉してより高い次元に進むにつれて、自分が背負う責任の重さをより一層感じるようになりました。そのため、自分を厳しく律し、修煉を成し遂げることで、師を助けて法を正し、使命を果たせるのです。