文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年11月17日】私は、26年間法輪功を学んできた大法弟子です。私の修煉の道は師父によって与えられたものであり、私の命は師父によって延命されたものです。今日は、私のこの20年以上の修煉の体験をまとめて書き、師父にご報告し、同修と交流したいと思います。
私は当時、病気治療と体調改善のために大法の修煉を始めました。修煉する前の私は、重度の肝硬変と腹水から肝癌に転化し、治療法はなく、無力な状態でした。その時、私は墓地を選び、息子に後の事を頼み、命の終わりを静かに待っていました。しかし、妻や子どもたちを残して死ぬことに心の中ではどうしても納得できませんでした! 30歳過ぎて家族を置いて行くのは辛く、よく一人で悲しみの涙を流していました。でも、どうしようもありませんでした。「閻王様(えんおうさま:地獄の王、死者の裁判官)が人を迎えに来るのは三更(さんこう)で、誰が五更(ごこう)を超えることができるだろうか」と。けれど、私の身に奇跡が起きたのです! 私は五更を越えて生き延びただけでなく、今も健康に生きています。なぜか? それは、命があとわずかで、死を迎えようとしたその時、私は宇宙大法を得たからです! 慈悲深い偉大な師父が私を地獄から引き上げ、私を浄化し、光明の道を歩むように導いてくださったからです。
修煉した後、私はすべての漢方薬、西洋薬、薬を入れる瓶を捨てました。なぜなら、人生の真理を理解したからです。人は「返本帰真」のために生きるべきだと分かったからです。そこから、私は毎日法を学び、功法を煉り、大法を広めることに力を入れました。村の人々は私の心身の変化を見て、次々と大法修煉に入ってきました。私の家で、功法を煉る場所を作り、どんどん参加者が増えてきました。みんなで一緒に法を学び、功を煉り、交流し合い、共に精進しました。話すことのできない奇跡的な出来事が次々と起こり、皆が笑顔に溢れ、心身ともに元気になりました。
山奥の村で人を救う
しかし、私たちが楽しく修煉していたその時、中共の狂ったかのような迫害が始まりました。功を煉る場所は閉鎖され、私は地元で逮捕される対象にされました。警察は何度も私の家に来て私を逮捕しようとしましたが、師父の保護のもと、私は何度も逃げることができました。最終的に私は家を離れることを余儀なくされました。私は宝の書『轉法輪』を持ち、妻は家にある100元足らずのお金を服のポケットに入れてくれ「早く逃げなさい、命を守って、絶対に戻らないで!」と私に言いました。
「行脚は非常に辛いことで、社会の中を放浪し、物乞いをしながら、いろいろな人に出会って、嘲られたり、罵られたり、いじめられたりして、どんなことにも遭遇する可能性があります」(『転法輪』)
しかし、私は物乞いをする場所すらなく、至る所で不当に指名手配されていました。家は24時間監視され、親戚の家にも行けず、友人の家にも泊まれず、人が多い場所にも行けませんでした。時には野外で夜を過ごし、寒ければ農民の作業小屋に隠れて暖を取ることもありましたが、明け方までにはその場所を離れなければならなりませんでした。濁った世の中に向き合い、私は空を仰ぎ、深くため息をついて言いました。「私はどこへ行くべきなのか? 道はどこにあるのか?」
幾多の困難を乗り越え、私は遠方に住む親戚の家に辿り着きました。彼らは私の状況を知った後、私を受け入れてくれることを承諾してくれました。ようやく足を踏み入れる場所を得ました。親戚の家はかなり田舎にあり、村人たちは法輪功のことを聞いたことがあっても、誰も修煉していませんでした。親戚の家で、私は昼間は農作業を手伝い、休憩時間には法を学びました。夜になると、彼らが寝ている間に静かに外に出て功法を煉りました。夏は蚊が多く、初めのうちは顔や手など露出した部分がすべて蚊に刺され、とても痒くてたまりませんでした。ですが、私は気にせずに「もし私が何かを借りているのなら、返してあげよう」と心の中で思いました。しばらくすると、蚊の羽音だけが聞こえ、もう刺されることはなくなりました。私は「もしかしたら、私はそれらの借りを返したのだろうか?」と思いました。その時、何かが私を覆っているように感じました。私は突然、気がつきました。それは師父が私を助けてくださっていたのだ、師父が私の周りに保護の力を与えて、蚊が私に近づけないようにしてくださっていたのだとわかりました。師父は私のそばにいらっしゃるのだと実感しました。その時、故郷から遠く離れた私は、感謝の涙が自然に流れ落ちました。涙が口に入ると塩辛いのですが、私の心の奥底ではとても甘く感じました。
私は理解しています。師父が私をここに導いてくださったのは、ここで人々を救うためなのです。それで、私が接触できるすべての人に真相を伝え、三退を勧めました。1年後、村のほとんどの人々は真相を理解し、三退をしました。その時、師父の精密な計画により、地元の遠い親戚が私を都市に連れて行ってくれました。
同僚たちが目撃した大法の奇跡
新しい環境に来た私は、土地勘もなく、最初は建設現場で働きました。ほとんどすべての汚れた仕事、重労働、誰もやりたがらない仕事を任されました。毎日の作業量は超過していましたが、私は一生懸命に取り組みました。それに加えて、周囲の人々の嘲笑や冷やかし、罵倒もよくありました。彼らは私を「馬鹿者」と見なしていました。しかし、私は大法の基準に厳格に従い「打たれても手を出さず、罵られても口をきかない」(『轉法輪』)ということを実行し、彼らにいじめられました。なぜなら、私はこれが自分が過去世と現世の中で積み重ねてきた業の返済であることを理解していたからです。
ある時、私は梯子を使って二階の高いところで作業していましたが、足を滑らせて空中から落ち、地面に座り込んでしまいました。その時、息ができなくなったと感じました。同僚たちが集まり、救急車を呼ぼうとしましたが、私は言葉が出せず、手を振って「車を呼ばないで」という意思を伝えました。彼らが私を起こそうとした時も、私はまた手を振って断りました。しばらくして、私は何とか立ち上がり、かすれた声で「大丈夫です、みんな仕事に戻ってください」と言いました。1人が「顔が真っ白なのに、まだ大丈夫だと言っている」と言いました。私は足が動くかを試してみましたが、歩けることがわかりました。足元には重い千斤のような感覚がありましたが、それでも一歩一歩工場の小屋に移動し、最終的に自分の宿泊場所に辿り着きました。その時、私の衣服は汗でびっしょりと濡れていました。
私は煉功を始め、第一式の功法で八つの方向に両手を伸ばしきる時、自分の体の骨がギシギシと音を立て激しく痛み、体が震えて汗が服から滴り落ちました。毎回この動作を煉る時には、このような状態になりました。私は「師父が私の骨を治してくださっているのだ」と心の中で思いました。私はそのまま5式の功法を終え、その後、学法を始めました。数日間、私はそのようにして修煉を続けました。
10数日後、私は再び建設現場で働くことができました。本当になんの問題もなくなりました。同僚たちは大法の奇跡を目の当たりにし、私は真相を伝えるのがさらにスムーズになりました。中には、私に三退を申し出てくる人もいました。
弁護士が称賛「あなたたちは最高の人たちだ!」
その後、私は真相を伝える過程である同修と出会いました。同修の助けを借りて、私は別の同修と一緒に部屋を借り、小さな資料点を作り、小さな花を開くことができました。私は毎日空いている時間に大法の資料を印刷して配布し、より多くの衆生を救うことに努めました。
大法資料を配布していたとき、真相を知らない人に通報され、私は連行されました。同修たちは私のために地元の弁護士を雇い、無罪弁護を行うことにしましたが、地元の邪悪な勢力が弁護士に圧力をかけ、真実を語ることを妨げました。その後、同修たちは私のために北京で別の弁護士を雇いました。この弁護士が初めて私に会ったとき、言葉を発する前にまず師父の『論語』を一遍暗唱しました。そして、弁護士は事情を説明した後、帰る前に「他に何か頼みごとはありますか?」と私に尋ねました。私は「ここに三退の名簿があるのですが、それを持ち出してもらえますか?」とお願いしました。弁護士は「あなたはこんな状態なのに、他の人を救おうとしているんですね。安心してください。必ず持ち出してきますよ。信じてください、出所した後にご家族に聞いてみてください」と笑いながら言いました。
この弁護士が2度目に私と面会したとき、彼は私のために弁護できることを伝え、どのように弁護を進め、私がどう協力すべきかを説明した後、再び「他に何か頼みごとはありますか?」と私に尋ねました。私は再度「三退の名簿があるので、それを持ち出してもらえますか?」とお願いしました。弁護士は再び笑いながら「わかりました。本当にあなたたちのような修煉者には感服します。私が接したすべての人の中で、あなたたちは最も素晴らしい人々です! もし私が引退したら、私も法輪功を修煉します」と言いました。
裁判当日、弁護士は私のために無罪弁護を行いました。その内容は簡潔で、非常に的を射ていました。「私の依頼人は一切の法律を犯しておらず、当庭での釈放を求めます」法官(ほうかん:裁判官)は言葉を失い、しばらく休廷を命じました。再び開廷されたとき、彼らは何の理由もなく、私に「社会秩序を乱す罪」という馬鹿げた罪をかぶせ、私に懲役3年の実刑判決を下しました。
(続く)