【明慧日本2024年11月21日】慈悲深い師父、こんにちは。同修の皆様、こんにちは。
毎年、明慧ネットで中国大陸大法弟子の修煉体験交流会を開催していただき、中国大陸の大法弟子は互いに面識がなくても、一篇一篇の体験文を通じて、不足を見出し、共に向上し、共に精進することができます。同修の正念正行と感動的な話に、私たちは大いに勇気づけられています。
第21回中国の大法弟子の修煉体験交流会において、同修を救助し、協力し合い、向上していった過程を書き記し、皆様と交流したいと思います。
一、一カ月で大きく変わった同修
同修の阿民さん(仮名)は大学院を修了し、市内の重点大学で教鞭を執っていました。阿民さんは1999年以前に幸運にも法輪功を学び始め、身も心も大きく変化し、大法を堅く信じました。中共の江沢民一派による法輪功への全面的な迫害の中、阿民さんは大法を守るため、何度も立ち上がって人々に真相を伝え、衆生を救いました。何度も不当に労働教養を科され、洗脳班に入れられ、判決を受けました。
ある年、阿民さんは再び連行され、両親の住む地域の留置場に不当に収監されました。そして両親との面会は許されず、様々な拷問を受けました。ある夜、阿民さんはトイレに行こうとして転び、脚の骨を折ってしまい、立ち上がれなくなりました。この状況で、監房のリーダーと警察官は彼が演技していると言い、二人の囚人に交代で脚を踏ませました。阿民さんは激痛に悶え、気を失いました。それでも警察官は演技だと言い、治療を施しませんでした。数日が経ち、阿民さんが本当に動けないのを見た警察官は、責任を取らされることを恐れ、ようやく刑務所病院に連れて行って手術を受けさせ、固定させました。しかし、すでに手遅れで、阿民は生涯にわたる後遺障害を負うことになりました。それにもかかわらず、阿民さんは懲役4年の不当判決を受け、刑務所に収監され、迫害を受けました。
旧勢力の按配を打ち破り、同修の負担を軽減するため、地元の協調人同修の手配のもと、私たちは救助グループを結成しました。元日、同修は阿民さんの両親の家を訪ね、両親を刑務所へ連れて行って、阿民さんと面会することになりました。中共による阿民さんへの度重なる迫害により、両親も大きな心の傷を負いました。特に父親は当時60代前半でしたが、顔には皺が深く刻まれ、白髪交じりで、よろよろと歩く様子は80歳の老人のようでした。
師父の加持のもと、私たちは11人乗りの車を借りることができ、阿民さんが不当に収監されている刑務所へ向かいました。私と他の二人の同修、そして阿民さんの両親が刑務所に入り、残りの同修は刑務所の外で発正念をしました。
阿民さんが収監されている監区は中腹にありました。刑務所に入った途端、牢獄の不気味さと警察官の凶暴さを感じました。私たちはすぐに師父の加持を請い、強い正念を発して、警察官を操り大法に対して罪を犯す一切の邪悪な生命と要素を解体しました。約30分待つと、阿民さんが地下道からゆっくりと足を引きずりながら歩いてきました。薄手の防寒着を着て、後ろには警察官が一人付いていました。阿民さんの両親は、私たちと阿民さんが互いを知らないことを承知していました。母親は機転を利かせ、阿民さんの名前を呼びながら「叔母さんと叔父さんが会いに来たのよ」と言いました。
阿民さんが事務室に入ってきて見ると、当時まだ30歳にも満たない彼が、度重なる迫害と様々な拷問により、50歳近く見えました。阿民さんは顔面蒼白で、警察官を見つめたまま動こうとせず、言葉も発せず、体が少し震えていました。椅子があっても座ろうとせず、両親が持ってきた食べ物も口にしようとしませんでした。特に数日後が誕生日だということで持ってきたゆで卵も、食べようとはしませんでした。
私は胸が痛み、涙がこぼれそうになりました。私は強い正念を発して警察官を立ち去らせました。しばらくすると、一人の警察官の携帯電話が鳴り、電話を受けた後、立ち去りました。残った張という警察官に、私はすぐに真相を伝え、阿民さんの状況について尋ね、上層部が大法弟子に正しく善意をもって扱うことを望みました。最初、警官は受け入れようとせず、責任を逃れようとしました。私は厳しく指摘しました。阿民さんが重傷を負っている状況で収監した以上、それはあなたたちの責任だと。警官は何も言えなくなり、ようやく阿民さんの治療について上層部に報告することを約束しました。
この時、阿民さんも私が同修だと分かり、正念も湧いてきて、しばらくすると家族が持ってきた物、特にゆで卵を一気に全部食べました。
一カ月後、私たちは再び両親と共に阿民さんに会いに行きました。今回も私たち三人が阿民さんの両親と共に刑務所に入りました。同じ事務室、同じ場所で、阿民さんは再び地下道から足を引きずりながら上がってきました。私が見ると、阿民さんは笑みを浮かべ、生き生きとして事務室に入ってきました。私たちを見ると、阿民さんは別の同修が迫害されている状況を話し始め、話しながら椅子に座りました。私が聞こえていないと思ったのか、私の手を引いて「聞こえましたか? ◯◯という同修が独房に閉じ込められ、扉を閉められ、迫害されているんです」と言いました。私は聞こえたと答え、阿民さんは伝わったことに安堵したようでした。
私たちは戻った後、すぐにその迫害を受けている同修の家族に知らせました。その家族はすぐに刑務所に同修に会いに行き、迫害の程度を軽減することができました。
二、二地域の同修が執着を放下し、協力して救助
同修の阿霖さんは医学を学び、卒業後、市内のある地区の病院で医師として勤務していました。1999年以前に幸運にも大法に出会い、大法を修煉してからは仕事に一層誠実に取り組み、真・善・忍の法理に従って厳格に自己を律し、患者からの謝礼を一切断り、より良い人になりました。1999年「7.20」以降、中共の江沢民一派による大法への迫害の中で、彼は何度も不当に労働教養を科され、洗脳班に入れられ、判決を受け、職を失い、住む家もなく、あちこちを転々としていました。
ある年、阿霖さんは賃貸アパートでまた連行され、不当に労働教養3年を科されました。この邪悪な労働教養所は私たちの市の郊外の山の上にあり、そこには100人以上の大法弟子が不当に収監され、迫害により亡くなった大法弟子も多くいました。阿霖さんは以前の収監時に、トラの椅子に座らされ、電気ショックを与えられ、手錠で吊るされ、食事を禁止され、睡眠を禁止され、「雷峰塔」などの拷問を受け、心身ともに深刻な傷を負っていました。
阿霖さんは強制収容所に送られた際、車が所内に入って車のドアが開いた瞬間、車から飛び降り、収容所から逃げ出そうとしました。しかし、飛び降りて足が地面に着いた時、片足の脛骨と踵を重度に捻挫し、動けなくなってしまいました。現場の警察官は阿霖さんの怪我の痛みを無視し、監区内に引きずり込み、食事も水も与えず、さらに強制的に労働させ、肥料を担いで野菜に撒かせました。
私たち市内の大法弟子がこの知らせを受け取ると、すぐに収容所近くで発正念を始めました。この発正念の最中、天目が開いている同修が一つの光景を見ました。山の上で発正念すると、山が一面赤く染まり、空に神仙が現れ、彼らも発正念しているようでした。山の下でも発正念する同修がいましたが、山の下の空は一面霧に包まれていました。同修たちはこの知らせを聞いて大きな衝撃を受け、もともと山に上がりたくなかったり、恐れの心があった同修たちも直ちに自分を正し、皆が山に上がることを望むようになりました。安全のため、協調人同修は同修たちを数組に分け、交代で山に上がるように手配しました。収容所から出てきた同修たちは、外の同修が発正念すると、収容所内の環境が緩和され、警察官や悪人たちの態度が和らいだと言っていました。
また、私たちは阿霖さんの家族を探そうとしましたが、それは容易なことではありませんでした。なぜなら、私たちは阿霖さん本人もその家族も知らなかったからです。参加した同修たちはまず心を静めて法を学び、なぜ同修を救助しなければならないのかを法に基づいて認識しました。阿霖さんの母親と親戚は郊外に住んでおり、私たちの市街地からとても遠く、さらに私たちは彼らを知らないため、自分たちの面倒を避けたい心、苦痛を避けたい心、疲れを避けたい心、時間を無駄にして自分の修煉に影響を与えることを避けたい心などを見つけました。私たちは直ちに法の中で自分を正しました。そうすると、まさに暗い道に光が差したように、師父が私たちを助けてくださいました。同修が阿霖さんの母親の住む地域の同修を紹介してくれ、こうしてすぐに阿霖さんの母親と知り合うことができました。しかし、母親は阿霖さんが何度も受けた拷問による迫害経験に怯え、現地の同修と接触することを恐れていました。どうすればよいでしょうか。
師父だけが彼を救うことができます。私たちは阿霖さんが不当に収監されている収容所のある地域の同修と連絡を取り、現地の同修から大きな支援と協力を得ました。同修たちは教養所の近くに一軒の家を借り、その後、再び阿霖さんの母親と相談しました。母親は同修たちが息子を救助するために無私の奉仕をしていることに深く感動し、また借りた家が自分の住む地域からとても遠いのを見て、その賃貸の家に住むことを承諾しました。当時、彼らの地域には阿霖さんの母親と協力しようとする同修は一人もいませんでした。私たちの地域の同修は直ちに同修を手配して、母親と共に食事をし、共に住み、共に法を学び、共に煉功し、また定期的に小規模な交流会を開きました。最初、母親は同修と共に息子を救出に行くことを恐れていましたが、一定期間の法の学習と同修の全体的な協力による正念の場を通じて、大きな勇気づけを受けました。
特に一度、私たちの地域の二人の女性大法弟子が収容所の中に入り、直接、劉という大隊長を見つけ、釈放を要求したことがありました。その時、阿霖さんは迫害により意識が混濁し、私たち大法弟子を見ると大声で叫び始めました。警察官は彼が大小便を食べていると言いました。
その時、現場へ救助に来た同修は阿霖さんが迫害されている状況を見て、心が痛み、焦って劉隊長たちに釈放を要求しました。交渉の中で、一人の同修が焦りのあまり不適切な発言をしてしまい、劉隊長の背後にある邪悪な要素が劉隊長を操り、二人を逮捕すると叫びました。すぐに十数人の警察官が来て、二人を取り囲みました。その時、二人の正念は非常に強く、直ちに釈放を要求しました。外にいる大法弟子も非常に集中して発正念して協力し、一定時間の正邪の対決の後、邪悪な要素は解体されました。二人は師父の慈悲なる保護のもと、堂々と教養所から出てきました。
阿霖さんの母親と私たち全ての同修がこの出来事を聞いて、大きな勇気づけを受けました。ますます多くの同修が出てきて、収容所近くで発正念し、同修を救助する全体に加わりました。特に阿霖さんの母親は自分と同修との差、そして自分の恐れの心、私利私欲の心を見つけました。「同修が私の息子のために無私の奉仕ができるのに、母親である私が自分の息子を救助する勇気がないなんて、私はどうして師父に申し訳が立つでしょうか! 私は同修と一緒に息子を救助しに行きます」
その後、阿霖さんの母親は法の中で自分を正すことができ、一人で阿霖さんが収監されている場所まで行き、毎日収容所の正門前に座って息子の釈放を要求しました。その時は厳寒の真冬で、時には雨雪が降る中でも、彼女は変わらず冷たい収容所の門前の地面に座って息子の釈放を要求し続けました。彼女は良心のある警察官に何度も見られ、家に帰るよう勧められましたが、彼女は離れようとしませんでした。
彼女のこの慈悲深い胸襟、大法弟子の正念正行は、天地を感動させました。収容所の指導部と警察官たちは直ちに阿霖さんの釈放に同意しました。
この時はちょうど年末が近づいていましたが、阿霖の戸籍地の関係者が受け入れを拒否しました。どうすればよいでしょうか。救助チームの同修は阿霖さんの母親と相談し、彼女の故郷の610弁公室の人員に真相を伝えることにしました。阿霖さんの母親は、この数カ月の同修との全体的な協力による息子の救助の過程で自分を向上させ、身心に大きな変化が現れ、すぐに「行きましょう」と言いました。
そこで、私たち二人の同修が阿霖さんの母親に同行して車で現地に向かいました。阿霖さんの母親は一人の同修の家に行きましたが、ちょうど数人の同修が法を学んでいました。私たちが阿霖さんを家に連れて帰ろうとしており、そのために現地の610弁公室の協力が必要で、しかも私たち他地区の同修が遠路はるばる彼らの地域の610弁公室に真相を伝えに来たと聞いて、現地の同修たちはすぐにそれぞれが知っている同修を探し、私たちに協力して610弁公室周辺で発正念し、私たちを支援してくれました。
私たちは610弁公室に来て、阿霖さんの親戚という立場で、610弁公室の人員に、なぜ阿霖さんが法輪功を修煉するのか、なぜ何度迫害を受けても信念を放棄しないのかを説明しました。610弁公室の人員は話を聞いて深く感動し、その場で一週間以内に阿霖さんを迎えに行くことに同意しました。一週間後、阿霖さんは無事に帰宅することができました。本来3年の労働教養でしたが、3カ月で阿霖さんは収容所から出ることができ、旧勢力の邪悪な按配は解体されました。
阿霖さんの一件を通じて、彼の母親の地域の同修たちも勇気づけられ、立ち上がり、三つのことをしっかりと行う同修がますます増えていきました。
私たちはこれら全ては師父がなさっているのだと知っています。師父が弟子たちにこのような修煉の機会を与えてくださり、ありがとうございます!