日本明慧
■印刷版   

神韻の宣伝活動で協調の重要性を体験(二)

(明慧日本)二、正念を持って正しく行い、妨害を除去する
 
  神韻の宣伝をする中で妨害も現れました。一部の同修に病業が現れ、一部の同修の家に不祥事が発生しました。
 
  私の例を挙げましょう。ある土曜日の午前、私の息子に腹痛が起こり、一晩も寝ていない、食事もしていないと家族から連絡がありました。私は普通の腹痛かと思って、気にしていませんでした。夕方、学法を終えて帰宅の途中に息子に電話をかけたら、息子はとても弱い声で「お母さん、すぐ帰って来ないと、もう生きている私に会えないかも」と言いました。「なんて馬鹿なことを言うの」と言いながら、心の中に不吉な感じがしました。
 
  家に着いた時、息子は横たわっており、呼んでも返事をしません。私は焦って、息子の身体を揺すって名前を呼んで、涙をこぼしましたが、息子は全然動かず、眼球も動かず、人事不省の状態でした。
 
  これは私に向かって来た妨害だとすぐ気づきました。嫁が昨日東京に帰った途端に、息子はすぐに倒れています。私は発正念をして、師父にご加持を願いました。心の中で、「邪悪が『情』で私の足を引っ張るのは認めません。私は最も正しいことをやっており、私を邪魔するな。師父、助けてください」と発正念しました。10数分後、息子は少し動いたので、私は息子に少しお水を飲ませました。息子はお腹が痛いと言うので、病院に行こうかと聞いたら、息子は頭をふりました。私は引き続き発正念をすると、息子は少し良くなったようです。翌日、救急車を呼んで息子を病院に送りました。私は毎日朝と夕方に病院に行って、昼間は街頭に行っていました。3日後に手術をして、嫁も東京から帰って来ました。このようにして、一つの難関を乗り越えました。
 
  どんな神聖なことをしても妨害と試煉があり、個人修煉の要素も中に存在しています。私は正念を持って正しく行い、師父の慈悲に応えられるように頑張っていきたいと思います。
 
  三、街頭宣伝に立脚して、同修を理解する
 
 関西では、まだ日本の上流社会に向けての営業力が弱いため、それを担当する同修はとても疲れています。休日になると、これらの同修は街頭に行かずに家で休むことが多いのです。彼らはベストを尽くしており、私は彼らに思いやりを持って責めたりしません。上流社会に向けての販売枚数は少ないものの、多くの知り合いを作ることができ、来年の神韻のために良い土台を築いたと思います。
 
  全体の活動にはあまり参加しませんが、自分の思いつく方法で個人で神韻宣伝を積極的にやる同修もいて、以前の私はこのような同修に指摘したかもしれませんが、今の私は同修のやる気を大切に思って、行動にさえ出ればいいと思っています。
 
  自分の考えをしっかり持って、私の配置の通りに動かない同修もいますが、彼(彼女)もより良い宣伝をするためだと理解して、彼(彼女)の意見を尊重します。私は同修と隔たりと摩擦を生みたくありません。私は師父の言葉を心に刻みました、「われわれは、トラブルに直面した時、一歩引き下がれば世界が広々と開けると言っています」(『転法輪』)
 
  私は毎日地図を見たり電話連絡をしたり、一人で新しい宣伝拠点に行って通行量を観察したりして、とても忙しいのですが、心の容量を大きくしたため、以前のような苦しみを感じません。正念を持って正しく行動すれば、きっと大法の仕事をしっかりやり遂げられると信じます。
 
  四、謙虚に同修の意見を受け止め、間違いを正す
 
  私が上司のように修煉者にこれをやれ、あれをやれと指示を出すくせがある、という指摘を受けたことがあります。私の中に確かに共産党文化があると思います。これから善意を持って、自分の喋り方に気をつけようと思います。「仕事のときの口調、善の心、それに加えて道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです!」(『精進要旨』「はっきりと目覚めよ」)
 
  また、同修とよく相談すること、総括協調人の同意と支持を得ること、考えの不十分さを発見したらすぐ補うこと、などにおいて今後改善していく必要があると思います。今回の交流会を例に挙げますと、2010年度の神韻宣伝に多くの同修がとても努力を払ったので、きっと良い体験談を書けるのではないかと思って、誰にも相談せずに集団学法の時に言い出しました。今回の交流会は主に神韻のテーマをめぐって発表する、と同修たちに思わせたかもしれません。不適切な発言をしたのかと気づいて、交流会の世話人と話をしたのですが、集団学法の場ではっきり皆さんに伝えていません。結局、原稿を書く同修は戸惑ったりして、発表原稿はなかなか揃いませんでした。
 
  この事を通して、自分の思い込みと非現実的なアイデアを捨てる教訓を覚えました。必ず同修のみなさんと共通の認識をもたないといけません。さもなければ、いくら良いことを言っても、協力する人がいなければ、何事も成功しないのです。
 
  また他の協調人と意見が相違する時、自分が一歩を引いても、心にシコリが残ったり、無責任に逃れたりすることもありました。たとえば今年の5.13の祝賀活動です。これらにはすべて自分の取り除いていない常人の心がありました。敢えてここに言い出して、これから直していこうと決心しました。
 
  最後に『洪吟』の「無存」を吟じて、本日の発表を終えたいと思います。
 
 生きて求める所無く
 死して留まるを惜しまず
 妄念を蕩尽すれば
 佛を修するは難からず
 
  師父、ありがとうございます! 同修、ありがとうございます!
 
  不適切なところは、同修の慈悲なご叱正をお願いします。

2011年01月03日

■関連文章
大法に同化し 執着を取り除く(二)
返本帰真に向かって疾走し続ける(二)
神韻の宣伝活動で協調の重要性を体験(一)
大法に同化し 執着を取り除く(一)
神韻のおかげで私はいっそう向上できた(二)
神韻のおかげで私はいっそう向上できた(一)
神韻チケットを販売する過程での体験(二)
神韻チケットを販売する過程での体験(一)
神韻のDVDを配る体験
神韻を広め、真相を伝えた体験(三)