法をしっかり学ぶことは、師を信じ、法を信じることの基礎である
(明慧日本)先日、集団学法の時に出会った同修の甲さんの話の中での、師父を信じ、法を敬う彼女の言動は、私に大きな感動を与えました。彼女のことを迷信だと言う人もいますが、彼女は「私は正に迷信です。迷いの中でも、私は師父を信じ、法を信じます。師父のおっしゃったことは、私はそのとおりに行います」と話しています。これは正念が十分に足りていることの現れです。学法の時、彼女は足を組んで両手で本を捧げ、ページをめくる時も、気をつけて字がない白い縁の部分だけを触っています。
私が思うには、師を信じ法を信じることは、学法と心性を修めることを基礎としています。法をしっかり学べば、堅く師を信じ、法を信じることができ、法から離れた、感性による認識を正すことができます。
『大ニューヨーク地区法会での説法』で、以下の弟子の質問があります。「私は繰り返し『転法輪』を通読していますが、中から法を正す部分に関する内涵を読み取ることができません。これは悟性があまりに悪いからなのでしょうか」
この問題に対して一部の同修はかつて、師父の多くの説法は、『転法輪』を注釈するばかりでなく、『転法輪』の補充をしていると認識していました。これは間違った認識で、法を信じることを、厳重に妨害しています。甚だしきに至っては『転法輪』が不完全であり、「十講」などがあると邪に悟った者もいたのではありませんか?
師父は上の質問に、このように回答されました。「『転法輪』の中に今日私が皆さんに教えた法を正すことがあることを文字から読み取ろうとしたら、あなたは永遠にそれを読み取ることができません。修煉している大法弟子として、法を正す時期の大法弟子として、あなたが何をすべきなのかは、『転法輪』からそれを認識することができ、法理から知るようになります。ここまで認識することができるだけではなく、具体的にどのように行なうべきか、どのように良く行なうかまで分かるようになり、引き続き本を読めば、これから行なうべきことをも読み取ることができ、あなたに認識させることができます」
一人の修煉者として、どこまで悟っても、天目でどこまで見ても、実は無辺の法理の中の一部に過ぎません。修煉の中で、ずっと師を信じ、法を信じる試練があります。私たちの悟性があまりにも低くなってはなりません。敬虔な心理状態で『転法輪』を手に捧げると、無数の神仏、師父の法身が、そばで見守ってくださるすばらしい感覚を覚えることができます。
当然、師を信じ、法を信じることは、表面上の形式に留まってはならず、師父の要求されたとおりに行うべきです。現在にいたっても、師を信じ、法を信じることに言及するということは、本当に恥ずかしいことです。私たちがこの問題に触れることなく、師父もこの方面の法を説かれる必要がなくなった時、正に師を信じ、法を信じることの次元に到達したことだと思います。次元が限られており、不正の部分は、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
2011年07月09日
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/7/9/126606.html)
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