いかに内に向けて探し、心性を向上させるかについて(一)
文/中国の大法弟子
(明慧日本)今日までの修煉の過程の中で、一部の修煉者は修煉とは何かがわかっておらず、本当に理性から大法を理解できず、またはできていたとしても向上が非常に遅いという現象に気づきました。私自身としても、あまり修煉がよくできている方ではありませんが、このことについて自分なりの感想があるので、今回、文章に書き出すことで皆さんの参考となれば嬉しいです。
一人の大法弟子として、100%内に向けて探すことはあまりにも重要なことです。多くの同修が内に向けて探そうとしていますが、往々にして何を探すのか、どうやって探すのかがわかっていません。ある同修はめまいを感じるほど内に向けて探しましたが、みつかりませんでした。内に向けて探すことについて私は普段、以下のステップを踏んでいます。
第一に、大法弟子として問題に出会ったらまず、必ず私に問題があり自分を見るべきだという一念を持たなければなりません。もしこのように考えなければ、物事の具体的な表れの中に陥って議論してしまう、といったことになりやすいし、たとえ内に向けて探したとしても、相手の問題を探したり、自分がいかに正しいかばかりを考えてしまいます。ですから、まず自分の内に向けて心を静めれば、自分自身が見えるようになります。
第二に、問題に出会い、相手に何らかの執着や問題があったとしても、自分にも同じような問題がないか、相手の問題から考えてみるべきです。師父は『精進要旨』「時間との対話」のなかで、このことについて説かれました。実は、得てして相手の表れは自分を写す鏡であり、それは相生相克の理がここにあるからです。例えば夫の私に対する態度が悪いとき、自分を見つめ直してみれば夫に対して命令口調で話しかけていたことに気づきました。このような例は枚挙にいとまがありません。もし内に向けて探しても、自分に問題がないとわかれば、善意に基づいて相手の問題点を指摘すればいいのです。もし相手が指摘を聞いても改めない場合、私たちがそれ以上執着する必要はありません。
第三に、私たちが問題に出会ったとき、このでき事に対して自分がどのような考えを持ったのかを見つめるべきです。内に向けて探すとき、そのでき事の具体的な表れの中から探すのではなく、その時私たちがどのように考えたのかが重要なのです。私たちは放下できない常人の観念を見つけて、良くない考えを制御しなければなりません。もし自分に正しくない観念があったならば、これらの正しくない観念を変えるようにしなければなりません。ひとつの例を挙げると、ある時、上司が酒を飲んで酔っ払った後、私の仕事にミスがあると責めてきました。しかし、私の仕事にはミスがなく、上司の誤解でした。私はこの時、この上司の言動に心が動じることはなく、私が内に向けて探そうとしたので、ただちに師父が何が原因なのかを私に啓示してくださいました。私は普段、同僚に対していつも、この上司がいかに良い人なのかと話していました。しかし実際、常人が良い人であるかどうかは、私と何の関係があるのでしょうか? しかも上司が良いというのも常人の認識に基づいたものであって、決して真善忍の法理に符合したから良いと言ったわけではありません。私が常人に対する評価に執着したから、今回のようなトラブルを引き起こしてしまいました。
(続く)
2011年07月19日
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/2/27/114981.html)
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