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人心に対する執着を放下し、師父の按排された修煉の道を歩む(二)

文/中国河北省の大法弟子

二、 腕が骨折しても気にせず、正念を持って、三つのことをしっかり行う

  2010年2月のある夜、私は集団勉強会に参加しに行くとき、懐中電灯を持っていくのを忘れました。暗い中、自転車で田舎の小道を走るとき、ライトをつけ ていない電動車とぶつかりました。ぶつかった後、私は左腕の骨が変形し、腕と手や、すべての指先まで、大きく腫れました。表面からみると明らかに骨折して いました。電動車に乗っていた人は「私の父から電話があり、彼の持病が発作したから早く来て、と頼まれたので、とても急いでいました」と謝りました。私は 痛みを我慢しながら、「それなら早く行ってください。私は法輪大法を修煉しています。私たちはみな他人のことを配慮しないといけません。あなたがただ『法 輪大法はすばらしい、真善忍はすばらしい』と覚えさえすれば、それで満足です。私のことは心配しなくても問題ありません。何かあっても、あなたに面倒をか けませんから、あなたは早くお父さんのところに行ってあげてください」と伝え、片手で自転車を押しながら、集団勉強会に行きました。

  集団勉強会の場所に着いて、同修に状況を説明すると、皆これは邪魔であり、旧勢力の邪悪な按排だから、それを認めてはいけない、否定すべきだと悟りまし た。そして、みなすぐに発正念をして私の肉体を迫害しているすべての邪悪を解体しました。当時、私は左腕が我慢できないほど痛く、発正念をするとき、大蓮 華手印をしようとしましたが、左腕を持ち上げられませんでした。この時、同修がそれを認めてはいけない、絶対に持ち上げられると言ってくれました。同時 に、私は師父の教え「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」(『転法輪』)の法理を思い出し、本当に心がぱっと開き、直ちに手を持ち上げることが でき、発正念が終るまで、大蓮華手印をすることができました。

  家族は私が腕に怪我をしたと聞き、どうしても私に病院へ行き、レントゲン写真を撮って、どの程度怪我をしたのか確認するように求めました。私は「私は修煉 者です。師父に面倒をみていただいている人間です。常人の医療手段をとり、病院に行きたくない。だから、レントゲン写真は意味がない。私はどうすれば最も 正しいかを知っています。それはほかでもなく、師父を信じ、大法を信じることであり、師父の要求どおりに行うことです。そうすればすべてがうまくいくはず で、どこが壊れてもすべて回復し、ましてこんなにちっぽけな骨折なんか、なんでもありません」と言いました。家族は私がとてもきっぱりと、まったく病院に いく気がないのをみて、再び病院へ行くように要求しなくなりました。

  突然到来したこの魔難に直面して、私は、これは旧勢力が私の修煉の道のりに設けた大きな障碍だとはっきり認識できました。もちろん私はまずそれを否定しま した。師父は『2002年米国フィラデルフィア法会での説法』の中で、はっきりと教えてくださいました。「もちろん、全ての大法弟子は皆、旧勢力の按排を 認めないと言っていますが、それは口で言うことではなく、大法、法を正すことの要求にしたがって行えば、歴史上按排した全てを認めず、旧勢力そのものをも 認めないことになります」ですから、私はやはり内に向けて探し、自分を正しました。

  事故が発生したのはちょうど旧暦の元旦の時期で、私は主な精力を家族の年越しに費やしていて、旧暦の正月7日にやっと同修と一緒に出かけて真相を伝えまし た。この段階において、私は修煉を緩めていて、正念が足りず、真相を伝えるときは怖がる心がとても大きかったのです。その間、邪霊に操られているあるお婆 さんに会って、私たちが真相を伝えると、彼女は聞かないどころが、大法に対してよくない言葉を口にしました。私たちは発正念をして、彼女の背後の邪悪を解 体し、更に深く真相を伝え、彼女を目覚めさせ、同時に彼女に、善悪には報いがあり、大法を攻撃してはいけないと教えようとしました。しかし、そのとき、数 人の人が私たちに向かって歩いてくるのを見て、私には恐怖心が生まれ、真相を伝えることをやめ、そこを離れました。

  その後、これは師父と大法に対する不敬であり、大法に対して責任を取らず、衆生に対して責任を取らない行為であると悟りました。邪悪が私の修煉の道のりに設けた障碍に対して、私は必ず正念を持って、正しい行いをしなければなりません。もちろん、これは旧勢力の按排を認めるのではなく、自分を正し、正しい道を歩むことです。

 普段の理屈であれば、骨折した ら、それを接続した後、ギブスでしっかり固定し、板で動かないようにして、少しずつ新しい骨が生まれるようにしないといけません。私はどうやって煉功し、 発正念するのでしょうか。また、結印もできなくなります。しかも私はまだ外に出て、真相を伝え、人を救わなければなりません。私が板をつけて出かけると、大法弟子のイメージが損なわれるため、そうするわけにもいきません。

  ときには人心が出てきて、腕と手がこれほど高くまで腫れて、動かなくても痛いのに、煉功したらさらに痛くなるのではないかと思いました。しかも、動か すと骨がうまく成長するのかなどの心配が大きかったのです。師父は私たちに、「しかし、この厳しい圧力の下であなたは心を正しく持つことができるのでしょ うか? 自分を神と見なしているのか、それとも人間と見なしているのでしょうか? あなたの正念は十分なのでしょうか? この全ては皆さん、自分自身にかかっています」(『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』)と教えてくださいました。

  師父の説法は私を悟らせ、目覚めさせました。この難関に直面して、私は肉体の痛みに対する執着を放下し、自分を神と同様に見なし、心の中の、骨折したら痛いという観念を放下し、これこそしっかりした腕で、何をしても大丈夫で、何にも妨げられることはない、と思うようにしました。私がこのように考えたとき、 本当に痛みが感じられなくなりました。学法、煉功、発正念、外に出て真相を伝えること、およびその他の法を実証することを絶やしたことはなく、正常に行っ てきました。外に出て真相を伝えても、私の腕のトラブルを発見できた人はおらず、まわりの隣近所の人は私の腕が骨折したことを知らなかったのです。これは 大法の力であり、不思議な出来事でした。

(続く)

 

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/7/12/243825.html)
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