抑圧すべきではなく 心を修めるべき
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文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2015年3月26日】先日同修のみなさんと交流した「真に修めているのか、それともただ抑圧しているのか」の問題について、私の認識を同修のみなさんと分かち合いたいと思います。

 以前の私は、常に内に向けて探していて、とても緊張した生活を送っていました。後で気づきましたが、実際は「内に向けて探した」のではなく、ただ自分が間違いを起こすことを恐れることを出発点とした、「自分に対する審判と非難」でした。法を広めることと衆生を救い済度することについては、中国からきた観光客に会うと、ほとんどの場合、必ず彼らを助けて三退させようと思いました。世間話をする中、大法の話題に切り替える時、私の頭は素早く法を宣伝し、大法の実態を伝える話題に話を移します。しかし、このようなやり方に私はとても緊張し、その圧力はとても大きかったのです。なぜなら、目標があまりにも大きく、絶対的すぎて、極めて不自然だったからです。

 その後、私が見つけ出したのは師父の評注文章『金佛』の中の「外見はよいが中身はさっぱりである」ということでした。私は過去において、ただ間違いを起こすこと、師父の苦心して按配された縁を逃して嫌な思いをすることを恐れていたため、自分が悟ったたくさんの法理をもって、観念を形成されるのと同様に生活の中のすべての考えをチェックし、しっかりやろうという考えが非常に強かったのです。しかし、それはよく行っていない、或いは間違った選択をすることによりもたらされる結果を避けるためでした。

 ですから、一旦私が自分に自分が悟った法理に符合しない思想、情緒があることを意識できると、「間違いを避けたい」という「抑圧保護機制」が起動しはじめ、引き起こされた人心に直接直面し、それに忍ぶことができず、それを自分の身体に押し入れていました。

 そして、また自分の考え方、或いは情緒が悟った法理に符合しないと思うことにより、再び「罪悪感」が生み出されました。そして、体内には「様々な汚い人心」と「罪悪感」が積み上げられました。

 力を出そうと思えば思うほど、自分の体内にますます汚いものを積み上げる結末で、ますますあの強大な滋養をつけられた要素を制御し難くなり、自分がだめだと感じ、自分が再び酷い状態に陥り、悪循環を形成してしまわないようにますます更に力を込めて抑圧しようとしました。

 なんと、最大の執着心はほかでもなく、その「自分が間違いを起こすことにより良くない、酷い人間になることを恐れる」という強烈な私心であることを知りませんでした。

 その後、私は法輪大法には戒律がなく、悟った如何なる法理は、それがいくら正しい考え方だとしても、多く考え、繰り返して考えれば執着となり、観念を形成してしまったら、また妨害になることを悟りました。

 「必ずこうしないといけない、こうしてはいけない」という考えをもって、自分を守るために、常に小心翼翼にものを量るのは、大法修煉者が歩むべき方向ではなく、必ず隠す事なく、自分の人心に直接直面し、真に法理に基いて、これは人心であり、良くないものだと認識でき、内心からもう要らないと思い、それを放下しようとすれば、これこそ努力すべき方向です。

 私はこれらに気づき、あの「保護を名とする」「恐怖心の抑圧機制」を放下してから、ずいぶん穏やかになりました。

 無理やり抑圧して修めたのは非常に薄い、非常に表面的、容量も非常に小さく、自分を偉く思うものでした。ただ真に自分の不足を見出し、謙虚に自分の不足を受け入れ、自分がどれほど限られているかを認識できてこそ、はじめて緩やかな修煉過程において、法に照らして、内に向けて探し、ますます自分を良くさせることができ、容量もますます大きくさせることができます。

 以上は個人の悟りであり、法理に基いていないところについては、同修の慈悲なるご叱正を願います。

 関連する師父の説法と経文は以下の通りです。

 1、『精進要旨三』「学習者の文章に対する評注」

 すべての大法弟子がこの文章を読むことをお勧めします。

 ※学習者の「金佛」に対する評注

 2、『轉法輪』第一講「煉功してもなぜ功が伸びないのか」

 徳はどうやって功に演化するのかについてお話しします。修煉界には、「修は己にありて、功は師にあり」という言葉があります。一方、「鼎を立て竈を設け、薬を採集し、丹を煉る」ことや、意念活動のことを何よりも大事に思う人がいます。言っておきますが、ちっとも大事ではありませ ん。そればかりに気を取られると、執着心になります。大事に思いすぎると、執着して追い求めたくなるのではありませんか?「修は己にありて、功は師にあ り」なのですから、あなたにそういう願望があれば充分です。

 『轉法輪』第四講「業力の転化」

 なぜなら業力が誰かのところに落ちていれば、その人は必ず辛い思いをするからです。これは間違いないところです。

 3、『法輪(巻二)』「佛性」

 形成された観念は人間の一生を阻害し制御します。人間の観念は往々にして利己的であるか、または更に良くないものなので、また思想業力も形成され、人間はこうして業力に制御されてしまいます。人間は主元神に支配されているため、主元神が麻痺して観念に取って代わられたら、その人は 無条件に降参してしまったことになり、生命はこれらのものに左右されてしまいます。

 あなたの本当の自分は先天の自分であり、それは変らないものです。しかし人間が物事を認識する時、よくある種の観念を形成してしまいます。ところが、このような観念は本当の自分ではないのです。何の観念も形成しなければ、物事を判断する時に己の善良な本性、本当の自分からの見解を持つようになり、慈悲を持って物事を見るのです。本当の自分が現れれば現れるほど、あなたの思想はますますレベルが高まり、真に近づいており、あなたの先 天的な善良な本性の境地を反映するのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/12/29/302123.html)
 
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