うちに向けて探すことを堅持する
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文/中国大連の大法弟子

 【明慧日本2017年3月20日】2002年、法理上から、衆生を救い済度することは世の中の人々を救うだけでなく、自分をしっかり修めることも含まれていると悟りました。そして、以前のように単純に大法の仕事をするだけでなく、いかに自分をしっかり修めるかにも気をつけるようになりました。ちょうどその時、路頭に迷っている何人かの新しい同修に出会いました。

 一、同修の現れから、自分の不足を見る

 一度同修のAさんの自宅に泊まったことがあります。ある日の夕方、同修のLさんがやってきました。AさんがLさんの問題を率直に指摘しているのをみて、私はとても心を打たれました。なぜなら、自分はいままで他人の不足を指摘する勇気がありませんでした。他人が怒ることを恐れていたからです。Aさんは本当に闊達で、率直、かつ誠意がありました。彼に比べると私はとても狭い心の持ち主でした。そして、「同修のために、自分もAさんのように、同修を他人とみなさないで、善意を持って、自分の認識を述べるべきです」と言いましたが、意外にも、私の発言はLさんの反発を食らいました。

 私は彼の反発を聞きながら、自分の考えを照らしたところ、自分が言い回しをしていることに気づきました。同時に相手の言葉から、自分の問題が見えました。そして、自分を変えることを決心し、勇気を持って、自分の認識を述べました。意外にも、その時、Lさんは反発せず、静かに聞いていました。

 Lさんが帰った後、ずっと度胸がなく、人に借りを作ることを恐れていた私はLさんが怒ることを心配し、同時にまた自分の現れが修煉者らしくなかったのではないかと恐れていました。

 数日後、Lさんは自ら私のところにやってきて私と交流しました。彼は怒ることなく、却っていくつか新しいアドバイスをして帰りました。彼のアドバイスに対して、私は自分の内心の本当の考えを書き出したところ、そのなかではっきりと自分のたくさんの問題を見つけることができました。はじめて、自分の考え方はすべて執着と観念であり、しかもこれらの執着と観念は幼いころから持っていたことに気づきました。

 これらの問題が見えたと同時に、生命の深いところで少しの解脱感を覚え、内心でひとしきりの軽やかさを感じました。続いて、師父の当時のほかの説法を読んだ時、啓発を受け、よくできていない時はいずれ自分に向上する要素があることに気づきました。また問題を解決する時は、ただ表面の形式を見るだけでなく、それらの形式を通じて、修煉して向上する必要があり、ただ事実そのものを論じるだけでなく、そのことの背後の原因を見つけるべきだと認識できました。

 こうして、私は長い間、自分にまとわりついていた問題のなかから歩み出し、どうすべきかが分かり、長期にわたり、Lさんがみなに理解されなかったところを私は法理上で理解できました。そして、彼に自分の認識を伝えました。最後に意外にも同修から、彼が変わり、しかも表に出たことには私の力があると聞きました。

 その時から、私は自分が本当にうちに向けて探せるようになったと感じました。私が自分の家があれば、同修がやってきて集団学法ができるのにと思っていたら、しばらくして、意外にも私の能力範囲内で適切な家を購入できました。引っ越しの当日、Lさんはうちで集団学法することを提案しました。

 私たちは現地で集団学法の環境を切り開きました。しかも、集団学法の過程で、うちに向けて探すことを続けると、自分の向上が非常に速いと感じました。同修を助ける過程において、師父の説かれた法に基づいて法を認識する法理を体験し、法理に基づいて問題をみるとは何かがわかりました。現在その段階の修煉体験を思い出すと、私は同修が互いに知り合うことは偶然ではなく、すべてに私たちに見えづらい因縁関係があり、もし互いにぶつかった問題のなかで自分を探すことができれば、旧勢力の按排を否定することができ、更に修煉するなかで、互いに注意を促し、誓約を実現することができると悟りました。

 二、外に向けて探す思惟を変える

 2003年、身辺の同修Bさんが強制連行されました。驚きのあまり、普段自分がその同修との接触のなかで、法に基づいていない彼の言動が見えても、指摘しなかったことを思い出しました。ここには面子のこともあり、トラブルを恐れる心もあり、のんびりしたい気持ちがありました。

 これらを認識してから、今回の同修に対する迫害は、彼ひとりの問題ではなく、自分にも修めるところがあると思うようになりました。そして、心のなかで、師父に「師父、同修が帰られるようにしてください。私は同修と共にしっかり修煉の道を歩みます」とお願いしました。

 1カ月後、Bさんは戻ってきました。そして、私はBさんの問題について、彼と交流し、彼がうちに向けて探すことを望みましたが、結局彼との間にトラブルが現れました。私は心のなかの穏やかさがなくなり、学法する時、知らないうちにBさんのことを思い出し、彼の問題について、師父は説法のなかですべて説かれたと思っていました。

 こうして、互いにしばらく対峙しました。

 ある日、自分ひとりで学法する時、この考えがまたもや飛び出てきました。その時、私はふと警戒しました。修煉とは自分自身を修めることではないか? しかも、自分のこのような状態は法をもって、他人を量ることではないか? これは他人を修めさせているのではないか? 外に向かって探しているのではないか? こう認識できても、本を読み、学法するなかで、外に向けて探す考えはまだ非常に強く、抑制しにくいように感じました。そして、声を出し、その考えに向け、確固たる意志で、「自分を見よ!」と言い、続けて学法しました。

 こうして、外に向かって探す考えを排斥しながら、心を込めて学法するように努めました。しばらくして、法をもって、同修を照らす考えは弱くなり、最後に少しずつ消失していき、自分が法のなかに戻って、溶けている感覚を覚え、かつ穏やかで、心地よい感覚を覚えました。

 しばらくして、Bさんはまたもう少しで邪悪な強制連行をされそうになり、現地を離れて行きました。ある日、ドアのベルが鳴りました。ドアを開けてみると、意外にもBさんが私の前に立っていました。彼は厳粛な表情で私に、彼は私に感謝しに来た、私が当初彼にうちに向けて探すように伝えてくれたことに感謝しました。しかし、私は内心で、自分にまだたくさんの不足があることを知っていました。しかし、その段階の修煉体験は、他人を先にてし、うちに向けて探し続けるよう、正念の基礎を築いてくれました。

 三、うちに向けて探すことは法であり 常に堅持すべき

 一度、技術をもつ同修がやってきました。彼は、うちに向けて探すことは個人修煉時期の状態であり、現在は法を正す修煉であり、ほかでもなく人を救う仕事をすべきだと述べました。それを聞き、私は当時何も言わなかったのですが、内心では方向を見失い、如何に前へ進むか分からなくなり、頭のなかが空っぽになりました。その間、私は常に自問しました。人を救うことは正しい、人を救うにはうちに向けて探すことは不必要なのか? 本当に必要ではないのか? 

 ある日の朝、師父の説法を学ぶ時、「修」自体はうちに向けて探すことを意味すると悟りました。うちに向けて探し、執着心をなくしてこそ、本当の修煉になります。続いて、学法する時、師父の説かれた「自分を大法の中に置き、大法の中の一粒子として、何かをしているとき、それは私がすべき事だと思っていることをしています」[1]を学んだ時、師父を助けて法を正す概念が生まれ、修煉のなかの問題を師父は法のなかですべて説かれましたが、同修は完全に認識することができなかったと思いつきました。師父もすべての同修の前に現れ、具体的に如何にやるかを教えることはできません。ですから、内心のなかで、いかなる時でも、どんなことに遭遇しても、うちに向けて探し続ける法理を貫くべきだと思いました。

 その後、集団学法に参加したがらない同修のことを思い出しました。そして、子供を背負って、彼のところを訪れました。大通りを渡ろうとする時、突然車が多いから気をつけないといけないと思いました。その時、振り向くと、それらの車両が非常に小さく、小さくなり、しかも一列に並んでいて、まるで私から遠く離れていくようでした。私が大通りを渡る時、これらの車両は私の後ろを疾走していました。当時、ただ非常に不思議に感じていました。

 同修の自宅に着いた時、ドアをノックすると誰も応答してくれせんでした。その時、私は旧勢力が、私が師父を助けて法を正すことを妨害していると思いました。そして、そこを離れず、穏やかな心でドアの外で待っていました。しばらくすると、ドアが開きました。意外にも同修は自宅にいました。交流を通じて、問題点について一緒に分析し、法理に基いて認識した後、彼はまた集団学法に参加するようになりました。

 その段階の修煉を通じて、また現在の一部の修煉状況に結びつけたところ、同修らはみな修煉するなか、師父の説かれた法に対する自分の悟りに頼って、自分の道を歩み、異なることをやっていると悟りました。異なる認識を持っていることもあたり前のことであり、互いに排斥していることこそ問題です。それは法に基づいて、問題をみていないことであり、私達の認識はみな師父と法からくるものであると気づかず、自我を堅持し、自分と師父、大法との関係を正しく扱うことができず、たくさんの問題が現れやすいのです。

 師父は「皆さんは一つの全体をなしており、まさに先生の功のようです」、「まさに私の功のように、同時に各種のことを行なっています」 [2]と説かれました。師父はまた「異なるやり方は、法が運行している中での有機的な分担と圓容の方式ですが、法の力は全体として現れてくるのです」[3]と説かれました。私たちは現在迫害に反対し、衆生を救い済度する過程のなかで、もし法に基づいて問題をみることができなければ、その人の人心と観念が働き、異なる認識のなかで、自分を堅持し、目に見えたのはすべて相手の問題となり、うちに向けて探すことが表面に停滞しやすいのです。私たちはそれぞれ、自分の道を歩むと同時に、更に同修の秀でているところが、自分の修煉の向上と師父を助けて法を正すなかで、正面の作用を働いているとみるべきです。ですから、更に同修を大切にし、互いに補い、圓容し、共に協力して、衆生を救い済度する責任を全うすべきです。

 四、執着は他の空間の邪悪な生命と対応する

 私のまわりには夫婦の同修がいましたが、2人の間にはずっとトラブルがありました。私は自分がずっと彼らを手助けしていると思っていました。しかし、その後、彼らが私に対してたくさんの不満を持っていることを知り、意外に感じただけでなく、互いの間に溶け合えない物質が存在していると感じ、無念に思いました。

 ある日の朝、出勤する時、彼らの自宅の付近を通る時、無意識のうちに、彼らの自宅の窓が見え、自ずと同修の顔と声を思い出し、同修が非常に善良であると感じました。そして、必ず自分に問題があると感じました。そうでなければ、彼らが私に意見があることはないと思いました。そして、バスに乗った時、自分が彼らと接触した時のすべての考えの動きと心の状態を振り返って、うちに向けて自分の問題を探しました。少しずつ、私は自分が普段彼らと接触する際、心が落ち着かず、臆病であることに気づきました。そして、私はその原因を探しはじめました。その時、私の考え、意識のなかに、ぼんやりと一塊の物質が現れ、私が探そうとする問題はそのなかに隠れていて、子細に観察する必要がありました。そして、私は自分に表面だけでなく、根本的な問題を探すべきだと注意を促しました。

 最初は問題が見つかりませんでしたが、私は続けて探しました。すると少しずつ自分が同修と接触する際、表面的には非常に熱情的で積極的でしたが、落ち着いておらず、臆病の背後に何かを隠していることに気づきました。

 そして、私はこの思惟を元にその原因を探りました。私が彼らを知る前の心理状態を振り返った時、色欲の心が見つかりました。その心を見つけた時、まるで夢から覚めたような感覚を覚え、心も軽やかになりました。自分の心のなかに平淡で、慈悲な感覚が現れました。私と同修に覆いかぶさったその物質が消えました。

 続けて、自分に他人の不足、名利を求める心、人に嘲笑されたくない心などをみられることを恐れる心があることに気づきました。それは単なる執着を本当の自分とみなすだけでなく、知らないうちに執着心を保護したことになります。色欲の心を見つけ出した当日の夜、私は夢のなかで、その夫婦と一緒に仕事をしていて、私達3人が一緒にいた時、空から1匹の非常に、非常に大きなネズミのような、ハリネズミのような動物が落ちてくる光景をはっきりと見ました。目覚めてから、自分が色欲の心を見つけ出してから、邪悪な生命の隠れる場所がなくなったと悟りました。

 うちに向けて探す今回の体験があってから、私は、大法弟子は遭遇したトラブルのなかで、真面目にうちに向けて、自分の問題を探し、正々堂々と自分の不足に立ち向かうべきだと悟りました。なぜなら、これらの問題は本当の私達自身ではなく、それらは他の空間の邪悪な生命に対応しているからです。

 五、人間の情を放下し、法を守る

 2005年の時、現地の資料拠点では老年夫婦の同修が仕事をしていました。彼らは現地の真相資料の供給を担当していました。当時、現地には同修のCさんとDさんがいて、学法を重んぜず、ただ積極的に資料配りをしていました。最後に協調人は私と相談し、その2人の同修に真相資料を提供しないで、彼女たち2人に多く学法するように促すことに決めました。

 しかし、約2週間経った時、その2人の同修は不満を覚えました。そして、私はこのことについて、改めて考えました。よく考えると、このようなやり方は同修のためですが、衆生を救い済度することは師父が要求された三つのことの一つですから、私達には同修に資料を提供する責任があると考えなおしました。同修の不足が見えたら、ただ善意をもって、アドバイスし、彼女らに認識できるように手助けすべきだと思いました。

 協調人に自分の認識を交流した後、協調人も当時私の考えを受け入れると示してくれました。しかし数日後、彼らは私に対して、たくさんの誤解を覚え、同修のなかで私はまったくだめな人になりました。続けて、同修に資料を送るため、資料拠点を訪れたところ、夫婦の同修は私を見てみぬふりをしました。私はもう同修に信じてもらえなくなったと思い、非常に大きな衝撃を受けました。

 帰宅して、呆然とソファーに座って、どうすればいいかわからなくなりました。しばらくして、このままではいけない、冷静になって、しっかり考えるべきだと思いました。こうして、大脳のなかに素早く、資料拠点の同修として、安全の問題を考慮すべきで、更に多くの同修に知られないようにする責任があり、これは法のニーズに符合しているが、表面的に同修が自分を信用してくれないと思い、その背後にあるのは同修が私に何があったか、教えてくれるべきだということでした。

 ここまで思いついた時、私は、これは自分を偉くみていることではないか。これは人間の情をもって、修煉のなかのことに対応していることではないか。そして、どうすべきか考えた時、考えの深いところで、人間の情を放下し、大法を守り、資料点をしっかり守るべきだという一念が生じてきました。

 その時、また、以前自分が、同修の考えが如何に間違っている、同修との間に発生したトラブルはすべて師父がそのトラブルを利用して、自分に更に向上し、昇華できるように按排していることであると認識できました。同修との間に何かが発生しても、まず、大法を先にし、全体をなし、師父の必要とすることを行うべきです。

 ここまで思いついたら、私は泣くのをやめ、笑えるようになりました。黙々と資料拠点のために発正念し、同修に協力し、大法を圓容することにしました。同時に現地のほかの同修にも多く発正念をするように伝えました。

 しばらくして、夢の中で、その夫婦のなかの1人に病業が現れた時、私は自ら彼らの自宅を訪れていました。その結果、本当に夢でみたのと同じことが発生しました。そして、私たちは再び互いに協力しながら、衆生を救い済度しています。今日まで修煉して、師父は「社会形勢は変化しますが、修煉に対する要求は永遠に変わることがありません。なぜなら、それは宇宙の基準であり、大法の基準だからです」[4]と説かれました。しかし、私は師父の説かれた法の本当の内包をまだすべて悟っていません。

 1996年に法を得てから、今までの修煉過程を振り返ってみると、とても意気地がない現れでしたが、慈悲で偉大な師父の保護の下で、旧勢力の按排を否定し、師父の按排された道を歩んできました。最大の体験は確固たる意志で師父と法を信じ、心を静めて学法することを続け、如何なる環境でも、如何なる問題にぶつかっても、うちに向けて探すことを続け、法に基づいて、問題をみるように努力し、異なる時期に遭遇した異なる同修をも大切にすることです。

 以上、個人が修煉のなかで、体験した浅はかな悟りであり、不足なところは同修のご指摘をお願いします。

 ありがとうございます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『導航』「北米五大湖地区法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『導航』「ワシントンDC国際法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「学習者の文章に対する評注」
 [4] 李洪志師父の経文:『注意喚起』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/1/16/340904.html)
 
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