「他人の為」についての悟り
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自分に対応するように他人に対応する

文╱台湾の大法弟子

 【明慧日本2017年8月9日】修煉は、無私無我まで修め遂げなければならないと分かっています。しかし、長年修煉をしていても、いつも無意識のうちに、習慣的に自我を守るという私(し)の基点に立って内に向けて探していました。そのため、表面的なものを見つけたとしても、もっと深く隠れている執着や、後天的に得た観念についてどうしても気付かず、そのため、それらのものはずっと私の修煉を妨害していました。三つのことを行い、精進しているようにも見え、交流の時でも法理について堂々と喋ることが出来、プロジェクトに真面目に携わっていても、師父の私達に対するご期待、そして博大で奥深い法理の私達に対する要求には、遥かに遠く、「無私」、「他人の為」という境地にはまだまだ到達できないと感じていました!

 7月11日の明慧ネットに掲載された文章「観念と基点を転換すれば、天地が覆るほどの変化が起きる」の中で、「以前の私(し)の為の自分をゼロに戻し、本日から、他人のための生命になる。たとえそこまで出来なくても、自分を新生児のように、新宇宙の『他人の為』の境地に誕生させ、何も出来なくても、『他人の為』の境地で勉強し、成長して行く……、今日、私は自らを以前の観念から抜け出し、直接『他人の為』の基点に立たせるようにする」と書かれていました。

 この文章を読んで、まるで暗闇の中に一つの光が見えたように感じました。しかし、どのように勉強し、どのように成長し、そしてどのように自分を以前の観念から抜け出して行けるのでしょうか?

 悩みながら、法を学び、師父は「無私の境地に到達しようとすれば、まず真・善・忍に同化しなければならない」と気付かせて下さいました。そこで、私は以下のように悟りました。

 一、いかなる観念も持たないで他人を見る

 師父は「本当にいかなる観念も抱くことなく物事を判断できるならば、その人は真に自らを司ることができます。このような明晰とした考えは智慧であり、一般人のいわゆる聡明さとは異なるものです」[1]と明確におっしゃいました。

 一度交流した時、ある同修は彼の物事に対する認識を話した後、同修Aさんは「彼はなぜ相手の人を信じないのでしょうか」と言うと、同修Bさんは「彼らは仲良しじゃなかったですか」と言いました。それを聞いた私は、「同修は自らの認識を言っただけで、心の中に何も考えていないはず。AさんとBさんの思いは、後天の観念ではないか」と理解しました。

 二、他人の要因を排除し、ひたすら内に向けて自分を探す

 師父は「ですから、いざこざが起ったときに、各自は内に向いて自分の原因を探さなければなりません。この事はあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらずあなたは自分を探してください」[2]と説かれました。

 私はある同修と一緒にあるプロジェクトに長く携わって来ました。長く一緒にいると、彼に対していろいろな考えが出て来て、それを解決しようとしましたが、しかし、相手はどうしてもそれを避けていました。毎回トラブルに遭えば、「なぜ毎回謝るのは私なのか、あなたには間違いがないのか」と内心に不平不満を生じ、内に向けて探しても、ある次元になると、そこで詰まってしまい、トラブルは依然として改善されません。心の中では「一方が下がればいいでしょう」と思いました。

 ある日、Aさんは「下がるだけでは、問題の解決にならない」と言い、Bさんは「心が動じるのはやはり自分に不足要素があるからで、内に向けて探す場合、相手のことを考えずに、自だけを探すのよ」と言いました。

 再び自分を探して見れば、同修に対する情が重すぎることに気付きました。私はいつも自分の基準で彼を見ていて、交流の時、自分の体得と彼の不足ばかり話をして、相手の当時の状況を考えず、その日の仕事ばかり気にしていました。内に向けて探す時、彼の私に対するいらいらした表情が頭に浮かびましたが、私はすぐにその映像を排除しました。さらに根を掘り探ると、自分が今まで彼に対する情があって、彼が真相伝えをあまりしていないことを心配して、真相伝えの多さを圓満の基準と勘違いしてしまったことが分かりました。私には求める心、私(し)の為の心があったのですね!

 三、自分に対応するように他人に対応する

 同修と交流した時、同修は以下のような話をしました。

 (1)真をやり遂げましょう。どうすれば真をやり遂げることができるでしょうか? まず真に対応しなければならない人は、他人ではなく、自分自身です。まずあなた自身に真に対応しましょう。真面目に自分に対応し、真の話を言い、真の事を行い、いかなることにおいても、このように自分に対応しましょう(習慣にする)。そして、自分に対応するように他人に対応しましょう。あなたが本当にやり遂げることができれば、何事も他人に誠心誠意に対応することができれば、あなたの善も現れて来るのです。

 (2)善をもって対応しましょう。むやみに自分を攻撃しないように、過度に自分を責めたり低く評価したりしないように、そして、劣等感を持たないようにしましょう。心から自分に真に対応し、善を持って対応しましょう。それから、自分に対応するように他人に対応しましょう。他人があなたに間違って対応したり、あなたの感情を傷つけたり、あなたの利益を損なったりしても、彼らを許してあげましょう。あなたは他人を許すことが出来なければ、善をやり遂げることは出来ません。あなたは真に人を許すことができれば、善をやり遂げることも出来るのです。

 善の中には許すという行為が含まれています。許すことには必ず善が伴っています。なぜなら、許すことができれば、いつでも、何に対しても、誰に対しても、善をやり遂げやすくなるからです。

 師父は「それは一種の洪大な寛容であり、生命に対する慈悲であり、全てに対して善意をもって理解するという状態なのです。人間の言葉で表現すると、相手のことを理解することができるということです」[3]と説かれました。

 (3)忍をやり遂げましょう。どうすれば忍をやり遂げることができるでしょうか。もし、あなたは誠実で、寛容で、何事も他人のために考え、他人の感銘を考慮し、何事もまず内に向けて探すことが出来、ひたすら自分を修めることができれば、今度、あなたは忍を実践する時、きっとやり易くなるのです。なぜなら、もうあなたの心を動かすものがなくなり、あなたを刺激する事もなくなり、あなたを試すこともなくなり、あなたの心に挑戦するものはなくなるからです。人があなたに対していかに悪いことをしようとしても、あなたはきっと善意で理解し、苦しみに耐え、トラブルに遭っても人を許すことができるでしょう。そうすれば、あなたは我慢することはあるのでしょうか。あなたはすでに忍をやり遂げているのです。

 師父は「宇宙の過去は私(し)のためのものでした。人間について言えば、肝心なとき本当に他の人のことを振り切ってしまうのです。法を正しはじめた頃、『あなただけが他の人のことを気にしている』とこのように言ってくれた神がいました。皆さんがこれを聞いても不思議に思いますが、皆さんは大法が造った、他人のために考える正法正覚の生命だからです。もし私が何もしなければ、すべての生命は歴史とともに終焉を迎えることになります。ですから、一つの生命にとって、何かをするとき他人を配慮し、寛容を表すことができれば、このときこの生命は『他人のために』という基点に立っているからです」[4]と説かれました。

 わかった後、自分をゼロに戻し、最初から「他人の為」を学び、法を師にして、真に無私無我の生命になろうと思いました。

 少しの体得です。適当でない所はご指摘下さい。合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「誰のために存在するのか」
 [2] 李洪志師父の著作:『ヨーロッパ法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地で説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/23/351199.html)
 
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