文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年7月5日】同修のある文章を読みました。そこに書かれていたのは家庭内のトラブルに陥っている同修が他の同修にその苦しみを相談したとき、他の同修は法に基づいて助けることなく、やたらにその夫を責め、同修の遭遇に同情したため、トラブルに遭っている同修は夫を更に恨むようになり、修煉にとても大きな損失を招いたというものでした。
私も同じような経験をしたので、トラブルの中で修めてきた経歴を述べて、難に陥っている同修の助けになることを願っています。
家庭内トラブルの中で
私は3人の子供の母親で、夫と一緒に店舗を経営しています。店の中で子供を抱きながら働き、ある時は面倒を見切れず、上の子がどこへ行ったか分からなくなり、3、4回警察を呼んで子供を探したこともあります。仕事の他に子供達の食事、排泄や家事をして、常に忙しく心身共に疲れ切っていました。中国人なら皆知っていますが、男性達は外での付き合いがとても多く、よく夜中まで飲んで家に帰り、家に帰った後、怒鳴り付けることもあり、夫も時には私に暴力を振るいました。
若い母親が子供を道連れに自殺するニュースをよく見ます。物欲におぼれ、道徳が一瀉千里に下落して行く中国で、幼い子供を育てるのは容易ではないのですが、私は大法を修めており、自殺が罪であることを知っているので、そのようにはしませんでした。しかし私の恨み、苦しみ、嫉妬は私の前を阻む大山のようで乗り越えることが出来ませんでした。私は仲の良い人に会えば、いつも私の不幸と夫の不実を訴えました。マイナス思考で頭がいっぱいだったのです。これでは駄目だとわかっていましたが、乗り越えることができませんでした。
内に向けて探し、観念を変える
ある日、夫は仕事中に梯子から落ちてしまい、高校生の娘にも鬱の症状が表れるようになりました。私はこの世に何をしに来たのでしょうか? 人を救い済度しに来たのではないでしょうか? それなのに、私は家族を救えないばかりでなく、むしろ彼らを下へ落としたのです。長期に亘る正しくない私の状態が旧勢力に隙を突かれ、旧勢力は私の家族を迫害し、更なる魔難をもたらしたのです。
私は自分を探し、夫の立場に立って考え、理解しようとしました。中国では、男性も女性もとても容易ではありません。夫は高い物価と住宅価格、複雑な人間関係に直面し、圧力はとても大きいのです。実は私達はとても良い伝統的な家庭での分担をして、彼が外で責任を持ち、私は家のことをやりました。ただ私が自分をよく修めず、世間の良い生活に憧れ、自分の苦労を夫に認めてもらい、私に優しくしてくれることを願っていました。これは名利心が邪魔していたのではありませんか? 自分という枠から出ていなかったのではありませんか?
師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」[1] と言われました。師父の法に照らすと、私はただ悪者にすぎず、嫉妬のため包容、慈悲がなく、自分の大変さばかりを思い、相手の大変さが見えませんでした。自分の良い所だけを見て、他人の良い所が見えず、「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならない」 という師父の教えに、なんとほど遠かったことでしょう。
私は初めて師父のおっしゃった、「私のため、怒りのために、自分が不公平だ」[1] という人は悪者であると悟りました。このような人は利己的で、他人の悪い所だけを思い、自分の悪い所は見えず、修煉者としては、尚更あってはいけない状態です。このような状態でどうして人に自分の寛容、慈悲の一面を現し、人を救うことができるでしょうか? それは人を下へ落とすのではありませんか?!
私は修煉者として、功があるのです。私の恨みは他の空間では全て確かなもので、自分と相手に多くの不都合をもたらしており、これでどうして相手や相手の背後にある一層一層の衆生を救うことができるでしょうか? 背後の一層一層の衆生は、私のために救われなければ、どれほど私を恨むでしょうか? 私は相手にこのように申し訳ないことをしたのに、それでも相手に優しさを求めることができるでしょうか? 私がそれを求めるのは業を作ることではありませんか?! このように多くの衆生が私のために救いを得られないのでは、私は悪者ではありませんか?
自分を探し始めると、夫の多くの良い所と苦労が見えました。長年、彼はいつも家族のために頑張って働いてきました。物価が高騰している中国で、子供3人を育てる家庭の最低の出費は年間10万元に達します。しかし私達は衣食が足り、貯金まであります。ここには夫のどれ程の汗と心血が注がれていることでしょう。夫は家族のためにずっといろいろな経営をし、絶えず方法を見つけて金を稼ぎました。彼は家を買うことに同意しなかったので、私は彼をずっと責めていました。しかし夫には夫の認識があり、「これは中国共産党が金を収奪するやり方だ。家を買えば、共産党に輸血したことになる。もし誰もが良知を守り、家を買わず、共産党のこのような庶民に害を与える行ないを支えなければ、市場がなくなる。共産党はほかでもない中国人のこのような自己中心的な心を掴み、思いのままにできるのだ」と言いました。家を買えばローンを返さなければならず、必然的に自分と子供達の出費を控えるようになるのです。
これが常人である夫の不動産に対する理解でした。今考えれば、彼はどれ程鋭く見抜いていたことでしょう。しかし私はずっと夫を責めていました。自分の名利心と見えを放下できず、他人の前で自分は家を買ったと言い、自分を満足させようとしていました。この方面で私は本当に夫に及びませんでしたが、彼は頑張って私達に保障付きの住宅を買ってくれました。少し狭いですが、少なくとも私達には住む所があり、ローンの圧力もないのです。
私は探せば探すほど夫に申し訳なく思いました。夫の外での圧力は私より遥かに大きいのに、私は夫を理解して包容することなく、関心を寄せず、むしろずっと疲れている彼からの理解、包容、思いやりを求めていました。私の嫉妬心、虚栄心、顕示心、この世でのよい生活を求める心は、私が内に向けて探すことを阻み、ずっと外に向けて探させ、私の執着をもっと強くさせ、壁のように私を阻んだので、私は心のバランスが取れなくなりました。なんと強い嫉妬心でしょう!
実は私はどれ程幸せな人間でしょうか? 夫の外でのことを、私は何も心配する必要がなく、商売も彼がずっと心を配り、彼が拓いた道で、私はやるべきことをやるだけでした。夫は優しさが足りないだけで、よく罵りますが、しかしそれは私がよく行なわなかったからではありませんか?! 疲れて家に帰り、恨みを抱いて愚痴ばかりこぼしている妻がいれば、どんな気持ちになるでしょうか? 夫も自分を理解し、包容してくれる妻がいてほしいのではありませんか? 毎日笑顔で迎えてくれる妻がいたら、夫はきっと気持ちが晴れたでしょう。悪いのは私で、相手が悪いのではありません。
夫は虚栄心があまりなく、毎日古いサンタナ車で外を走ります。私は他人と比べて良い車に乗りたい、私には3人の子供がいるから、と言います。夫に比べて私は恥ずかしく思いました。しかし、私は自分が大法を学んで、夫のことをずっと我慢してきたと思っていました。それは私がいつも夫の悪い所ばかりを見て、自分は良い人で、自分は良妻賢母で、もし他の人なら、とっくに夫と過ごさないだろうと思っていたからです。なんと独りよがりだったでしょう。実は夫はずっと私を包容し、気を配り、私のことを我慢していたのです。
本当の修煉者ならきっと謙虚で、私のように独りよがりではないでしょう。なぜなら内に向けて探すほど、自分の欠点が見え、相手の良い所が見え、ますます相手に申し訳ないと思うのです。私が内に向けて探せば、夫の良い所が少しずつ見え、夫との差と自分の不足が分かりました。私の執着心も絶えずなくなり、私は夫に感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
私が以前恨んでいた姑と兄嫁は本当はとても良い人で、悪いのは全部私なのです。姑と兄嫁はみな伝統的な人で、苦しい生活に耐え、つらい仕事に打ち込み、質素に生活し、私にはない良い所が多いのです。彼女達は実は私に対してとても優しく、ただ、ある一点が私の都合に合わないだけで、私の執着心は自分を阻み、他人の悪い所ばかりを思い、他人の良い所が見えず、私は旧宇宙の利己的な理から抜け出ていませんでした。ずっと人への観念を固持し、自分の心は変わらず、修めず、「うわべだけ良くて、中身は悪者」だったのです。表面だけでなく、心まできれいになるには自分の心をよく修めなければなりません。
同修のAさんが同修のBさんに、Cさんが如何に悪くて、このような事をした、このような話をしたと訴える時、実はAさんの話の多くは真実です。Cさんは確かにそのような事をし、そのような話をしました。よく聞いてみるとCさんは本当にあまりにもひどく、とても不合理でしたが、多くの話は当時の状況、当時の環境、当時の言葉遣いから離れており、それだけを言うと、話が変わってきます。もしかするとそのような環境では、そのような状況と言葉遣いや、Cさんの話と行ないは不合理でないかもしれません。私達は必ず法に基づいて同修を助け、同修が内に向けて探し、自分を向上できるようにさせるべきで、情で同修を助け、具体的な事の中に陥って、そこから抜け出せなくなってはいけません。
師父は次のようにおっしゃいました。「慈悲をもって世界を看れば 今し方迷いの中から醒める」[2]、「正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[3]。同修が不満を訴えるとき、私達はまず同修の状態が正しいか、正しくないかを認識すべきです。本当の修煉者は心が平和で、慈悲で、善意で、感謝に満ち、他人の良い所が見えるのです。マイナス思考でいっぱいの状態は正しくないのです。具体的な事の中に陥ってどちらが正しいか争い、情の中に陥っている同修に同情して、我慢ばかりしてはいけないと言ってあげるのは、党文化の中での争いではありませんか? 同修が内に向けて自分の不足を探すように助けるべきです。修煉は自分を修めるのであって、他人を修めるのではありません。法を持って自分を律することで、他人に求めることではないのです。
法輪大法デーを祝う文章を読んで、私は更に自分の不足が見えてきました。同修の純粋な善に私は本当に感動しました。自分を修めることを悟った私は、長い間回り道をしてきました。私の経歴が私と似た経歴のある人の助けになってほしいのです。回り道を少なくし、内に向けて自分を修め、自分を探し、自分の心性を向上させてこそ、慈悲心が生じ、本当の意味で人間を抜け出ることができます。
認識に限りがありますので、足りない所は同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「功成って圓満する」
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」