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修煉中のわずかな体験

(明慧日本)自分の修煉の道を顧みると、恐怖心に阻まれ、大法を実証することを正々堂々としていませんでした。例えば、家では大法の関連書籍や真相資料は常に奥深くに隠していました

 ある日、同修に私の家に来てもらったとき、私が大法の書籍を隠しているのを見て、自分は大法書籍を全部正々堂々と最も相応しいところに置いていると言いました。大法弟子の家は私達次第で、邪悪のことは根本的に考えていないと話してくれました。私は同修の話を聞いて確かに、部屋の全てが法器であれば、邪悪は近づくことができません。その後、私は昔のような恐怖の感覚はありませんでした。

 私の家にもパソコンがありましたが、ネットに繋がっていませんでした。自分もパソコンについて分からないので、普段触りもしませんでした。多くの真相資料が衆生の需要に足りないのを見て、自分が作ることができたらと思いました。ある日、協調人が私の家にパソコンがあるのを見て、ネットに繋ぐ方法を教えてくれました。本当にネットに繋がったとき、中国共産党のネットに対する監視が厳しいなどの話を聞いたことがあり、恐怖心が生じてきました。しかし、協調人である同修は常に時間が足りず、1人で苦しんでいるのを見て、自分も何かしなければならないという責任感も同時に生じてきました。そこで師父に加持していただき、同修に励まされて、私も資料を作るようになりました。

 最初に私がこの話を夫にしたときは、夫は口には出しませんでしたが、機嫌が悪くなっているのが分かりました。私はなぜ衆生を救わなければならないかの法理から、同修が困っていること、正法の需要などを話しました。夫はどんどん私を理解してくれ、後に夫も彼の同僚に三退を勧めました。

 資料を作る過程は執着を暴露し、真に修める過程でもあります。資料を作るとき、紙が詰まって印刷ができなくなったり、ページが間違ったりするなど、うまくいかない時があります。問題に出遭い、内に向かって探すべきだと分かって探しましたが、状況が変わらない時もあります。そのたびに落ち着かず、恨む心などの人心が生じてきます。後で気付きましたが、自分には非常に悪い一念があり、自分は大法に条件を出していました。内に向って探せば、必ずうまくいかなければならないという考えがありました。

 ある日、学法が終わって交流する時、ある同修に私のいろいろな振舞い、話し方が気にいらないと言われました。当時は静かに聞いて、これも内に向って探すところがあるからだと思いました。しかし、しばらくの間、同修の話がずっと頭の中で回転し、離れませんでした。自分がもし修煉していなかったら、絶対にその人と付き合わないなどの思いも生じてきました。他人が自分のことを良くないと言えば、その人と付き合わないなどの考えは神の状態でしょうか。邪悪の要素はこのように、同修の間に隔たりを生じさせます。

 師父は『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』の中で「やさしくされたら善をもって接するということではありません。それは代価がなく、報酬も気にせず、まったく衆生のためのものです。ですから、慈悲が現れると、この上ない力があり、いかなる良くない要素も解体されてしまいます」とおっしゃいました。

 このとき、私はやっと認識しました。同修はお互いに包容しなければならず、同修の念は正しく、良くない考えは全部同修のものではなく、邪悪の要素が同修の間に隔たりを作るのだと考えました。私は同修を訪ねて、すべて自分の間違いで、これから直すと話しました。これで一切が解決されました。

 同修たちよ、正法の最後の時期、私達は厳しく自分を律するべきで、衆生を多く救い、理性をもって最後の道を歩み、私達の先史に立てた大願を果たしましょう。

2010年3月11日


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/3/8/219433.html

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