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「師父に求める」ことも、師を信じ、法を信じることの体現(二)


文/中国の大法弟子

(明慧日本)目的地に着いて、神韻に関するDVDと資料、法輪功のお守りを昔の同級生に渡しました。

 その時から、時々刻々に師父が私の隣にいらっしゃると感じました。例えば、同修の家に行く途中で迷いました。それで、師父に求めたとたん、2人の農民に会い、大体の道を教えてくれました。どっちへ行くか分からなくなった時、同修が迎えに来ました。師父に感謝します。大法に感謝します。もし、バスの中の遭遇がなければ、「師を信じ、法を信じる」という法を、そこまで理解できなかったはずです。今やっと分かりました。師父に求めることは、人に頼ることではありません。さらに、師父に迷惑をかけることでもありません。これこそ、自分を大法の中に溶け込ませたということです。私のやっていることは、自分の誓約を果たしているのです。私は師に手伝い、法を正し、人を救いにきたのです。

 留置場で仏門に帰依した居士が、宙に浮かんだ師父を見て、「あなたの師父がここにいらっしゃっています」と私に言いました。その時、良い香りを感じました。それから、いつもその良い香りを感じました。私を喜ばせたのは、法の中に溶ければ何でもできるということです。師父が私に佛法神通を与えてくださるのは、私を精進させるためです。今は何を考えているか、何を思っているかがとても重要です。

 1998年、外傷を負ったので、1日入院しました。家に戻る時、横になって目を閉じると、赤色に囲まれ(その赤色はこの世の赤色ではなく、とても神聖な色)遠いところから一つの顔が出てきましたが、だんだん私に近づき、私がその顔に注目したとき、夫が私を叩いて、その顔は消えました。私は、お寺の和尚、居士にいったいどうなったのかと聞くと、彼らは「それはあなたの師父です」と言いました。それから、よく注意しましたが、その画像に似ている顔はずっと見つかりませんでした。それで、そのことをだんだんと忘れてしまいました。

 この間、突然その光景を思い出しました。それは私の師父ではありませんか。どうりで47歳の時、湖の中に落ちても無事だったのです。どうりで子どもの頃から、空を見るのが好きで、空を見る時、頭の中に「自分は偉いことをするために来た」という考えが浮かんでいた。のです40歳の時、私はついに分かりました。

 師父が頑固な私を「真・善・忍」の中に入れ、「真・善・忍」の威徳に浸らせた時から、私はこの世の中で良い人として処世するだけでは満足できなくなりました。超常の人とは何か、超常の人とは人の上に立つ人です。神です。師父は私を神聖な帰路に導き、誓約を履行し、衆生を済度するという神聖で、偉大なことをさせてくださっています。

 なぜそんなに神聖で、偉大でしょうか。「真・善・忍」の威徳に浸っているからです。時々刻々の師父の加護に違いないのです。そのため、法の光で自己をきれいにし、心を昇華することさえできます。 

 師父、私はどのように、あなたの恩に報えばよいのか分かりません。心を込めて自分を修め、精進し、三つのことを真面目にやり遂げ、師について家に戻ります。できるだけいつも、「求めずに、自ずと得る」までやり遂げます。私の命は師父が与えてくださったのです。師父に従って、決して使命に背きません。

  2010年5月2日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/23/222042.html

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