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内に向かって探し、自分をよく修める

(明慧日本)師父は「初心を忘れずに修煉していけば、必ず正果を得ることができる」(『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法言』)と話されました。すなわち、私たちは自分自身を修めるときに、厳しく自身を律さなければなりません。そうして、やっと三つのことを行う基礎が成り立ち、威徳が樹立されるのです。

 難義と衝突に遭うとき内に向けて探すべきです。衝突が現れたからには、それに原因があるからです。真に内に向けて探して向上できれば、正念を以って悟り、正念を以って行動していれば、自分の執着心を見つけられ、それを取り除き、昇華できるはずです。人間の一念か、神の一念かの差が肝心だと思います。修煉、向上の過程において、私は感じたことがあります。一つ目は、冷静に意識をはっきりと保ち、その物事の中に陥ってはならず、内に向かって探すことで物事に対応することです。二つ目は、最短時間で内に向かって探して、邪悪に時間と空間を与えてはなりません。三つ目は、何事においても、法を重んじて、執着と観念を見つけて取り除き、できるだけ早く自分を昇華させることです。

 ある同修Aさんを訪ねた時の事を思い出しました。Aさんは同修Bさんの事をあれやこれやと私に言いましたが、聞きたくなかったので「あなたが言ったような事ではありません」と彼女に言いました。すると、彼女はすぐ「あなたも彼女と同じで、人に話をさせてくれない」と言いました。私は直ちに頭がくらくらとしてきて、どうしてこの事が私に向かって来たのだと思い、彼女と口論し始めました。結局彼女は、私たちが彼女の事を全然気に掛けてくれないとか、自分たちのことしか考えてないなどと激怒してしまいました。彼女が怒りだすと、かえって、私は冷静になりました。これ以上口論してはいけないと思い、家に帰りました。先の出来事を映画の一場面のようにもう一度頭の中で蘇らせました。彼女が言った一言、一言がすべて、まるで私の心をえぐっているようでして、いくら探しても自分の問題点が見つからず、悔しい気持ちで胸がいっぱいでした。その後、隙に乗じ、私が心を静めて自分の執着を見つけることを邪魔するすべての邪悪を取り除くようにと正念を発しました。私はこのことから抜け出して、いったい自分は彼女が言ったようであるのか、第三者、他人の角度から見直してみました。そうであれば、どうすべきか。そうでなければ、どう対応するのかと考えました。ようやく自分の執着を見つけることができました。私の認識、私の観点、私の表現方式、私の善の心、などの猛烈に自分の人心を守ろうとする心。不当な扱いを受けたくない、くやしい思いもしたくない、叱責を受けたくない、などの執着です。

 これで分かりました。この件において、是非の判明は重要ではありません。偶然に見えた出来事を利用して私の心を刺激して、自我を執着するこの長年の根本的な執着を見つけさせたことが肝心なのでした。この一瞬、頭の中にある場面が浮かびました。無数のロープが繋がったボートがあって、そのロープがそろってキッパリ切断され、ボートは間もなく出港して行きます。この場面を見て、私の内心はとても軽やかになり、前の辛さ、悔しさが一掃されました。私の目が涙で潤みました。次の日、あの同修を見つけて真心をこめて彼女に感謝しました。緩んだ時に私を呼び起こし、奮い立たせてくれて、重荷を捨てさせてくれたからでした。彼女は自分も辛くて、湧き出た人心を直ちに見つけることができず、一日頭痛がしていたと教えました。私たちは早く放下できないものを取り除いて、一緒に精進しようと励まし合いました。

 もう一つの関はずっと私の修煉と伴ってきました。それは家庭の関です。主人はしょっちゅうお酒を飲んだ後、言いがかりをつけてトラブルを起こすのです。言いだせば恥ずかしいことです。私は外では自分を制御することができたものの、家では真に着実に修めることができないことが原因か、それとも因縁の関係が原因だと思います。さもなくば、主人が私の心性を高め、最も乗り越えられない、取り除きれない心「人に指摘されたくない心」を取り除くために手助けしてくれているのかもしれません。師父が『転法輪』の中で挙げられた例のように、普段良く気にして自分を厳しく律しているため、家の中にしても、外にしても、皆に認められ、尊敬されているから、だんだんと自分の負けず嫌いの心や、虚栄心、自尊心を助長してしまいました。

 ある日、主人がいきなり理由もなく私を罵りました。私の堪忍袋が切れそうでした。最初は我慢しましたが、だんだんと我慢しきれなくなり(何回も繰り返して)彼と喧嘩しました。次の日、私の思想業力が強く現れ、常人がよく使う意地悪な方法や、良くない言葉が湧き出ました。正念を発してこれらを取り除きますが、神の状態で正念を発していたかと思うと、常人の状態がすぐに現れて、正念を発しても、法を学んでも全然身が入りませんでした。それではいけません。思想業力に振り回されてはいけません。表に出ている執着ほど、悪く、激しいことは分かっています。けれど、今はこれらを取り除く最後の時期がやってきたのです。消極的から積極的に変わるべきです。同修と交流して、これらの心を暴露し、決して包み隠しません。『オーストラリア学習者への説法』のDVDを鑑賞して、師父が説かれた法が心にしみて、徐々に私は冷静になり、落ち着きました。もうこれ以上ダラダラしてはいられません。繰り返し現れる執着の根っこがいまだに掘り出されてないはずです。

 無条件に内に向かって探して、自分のたくさんの不純な心を見つけました。独りよがり、思いやりがない、自己中心、面倒がる、人に指摘されたくないなどの心で、集中してこれらを取り除いた後、穏やかに主人と話し合いました。「私の至らないところを教えてくれれば改めます、飲酒後の暴言をやめてください」と話しました。話の後、内心にかすかな悔しさを感じました。「自分が不当な扱いをされたのに、謝るなんて」これは執着心が徹底的に取り除かれてないからだと感じました。それは、夫婦の間にあるメンツを重んじる心です。その時、主人はすごく感動して、はじめて私が素直に自分の過ちを認めたと言いました。悪いものが滅されたことが分かりました。それ以来、主人はもう二度とトラブルを起こさなくなり、私も人に指摘されたくない心を取り除くことができました。その瞬間に、師父がおっしゃった「内を修めて外を安定させる」について、より一層深い内包が理解できました。

 このような例はたくさんあります。仕事や日常生活の中で、何か厄介なことや、不愉快を感じた時に、その心を遡って内を向かって探せば、必ず執着を見つけられるのです。正念をもって取り除き、乗り越えられない難義はありません。時間をかけずに探せば探すほど、向上するのが早いのです。師父が「内に向かって探す」という宝物を私たちに下さり、くれぐれもこの宝を大切に使い、時間が経つにつれ、「内に向かって探す」という習慣ができ、その習慣は私たちを邪悪から遠ざけ、制約し、無条件に内に向かって探し、できるだけ最速で執着と観念を取り除くことができ、三つのことを実行する事を通じて、絶えず昇華でき、師父の期待に背かないようにさせてくれる機制だと思います。

 個人の悟りですので、同修のご叱正をお願いします。

 2010年7月4日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/6/15/225451.html
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/6/30/118252.html

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