九死に一生、迫害された女性が身体障害者に(四)(写真)
(明慧日本)私は労働教養期間中に治療費を送ってもらうため、一度だけ自宅に手紙を書くことが許されました。ほかに両親、夫、娘に書いた手紙はすべて郵送を拒絶されました。2009年3月頃、警官の趙麗麗は、家族に電話して殴打によりできた傷を治療するお金を送金させるようにと私に指示しました。しかし殴打したことについては話さないように強要しました。私は電話で夫に「私は今、身体障害者になっている」と言った途端、電話を切られてしまいました。警官は私の夫と両親が司法機関を信じている事を利用し、私が虐待された事実と状況を隠しました。また夫が私と離婚して別の女性と結婚し、娘も父親が扶養することになり、アメリカに行くなどの噂を広めて私の家庭を破壊しようとしました。私は釈放されてから、夫が趙麗麗とよく電話連絡をしていたことを知り、私の状況が正常だといって騙していたことも知りました。その後、煉功を続けた為、精神が少し異常になり、精神病院に送って治療をしていると夫を騙したのです。
労働教養期間中、私はトイレに8カ月監禁されました。残りの時間は大隊長の事務室、警官の事務室、大きい事務室、監禁された人たちの衣類倉庫、浴室、諮問室などで過ごしました。3カ月洗面を禁止されたことも、最長40日便が出なかったこともありました。8カ月トイレに監禁された間、私と会ってはならない、私に時間を教えてはならないと他人に要求しました。1年半の間、私はわずか2カ月だけ靴を履き、残りの時間はサンダルで過ごし、冬は12月になってやっと靴下をもらったのです。これらが良心をすっかり失った労働教養所の警官たちが、法輪功修煉者に対して行う穏やかに「転向」をさせるという手段なのです。
労働教養所から釈放される時の迫害
残虐な迫害により、5カ月目にもまだ麻痺状態が続いていました。釈放の当日、頭を洗い、食事をする時の私の様子をビデオで録画して迫害の責任から逃れようと証拠を残そうとしました。食事の終了後、4人がベッドから私を持ち上げて1階に降ろしました。私は夫が迎えに来るように要求しましたが、実際には「610弁公室」と住民委員会から3人が来て私を青島市紹興路67号にある610洗脳班に移送しました。そこで私は毎日「法輪功は素晴らしい」と大声で叫んだので、彼らは非常に怖がって窓を閉め、私が空調にアレルギーがあることを利用して迫害しました。彼らの行為を外部に暴露しようと名前を聞きましたが、誰も教えてくれませんでした。最後に、彼らは仕方なく、7月2日に「610弁公室」に連絡して私を自宅に送りました。自宅に帰った時、私の両脚は麻痺して全身に浮腫ができていました。当局は私が外部に迫害を暴露することを怖がり、私の自宅と電話を監視しました。
追記:張栄訓さんが述べた妻・陳振波さんの身体と精神の状況
妻の振波が釈放され、2010年7月2日に自宅に戻されましたが、体調がすぐれませんでした。労働教養所で受けた恐ろしい迫害により背中が痛み、左半身が不随になって痛み、頚椎、脊椎、胸椎、腰椎がずれて、背中の縦溝が消えて傷が残っていました。頭痛と眩暈がして、記憶を失い、知人と会っても分からず、今話したことをすぐ忘れ、物が二重に見え、食事の時、飲み込みが困難で、時々尿を失禁し、便秘にもなっていました。2本の歯の裏側が欠け落ちて、髪の毛が白くなり、顔は皺だらけでした。
4、5月ごろ、労働教養所の大隊長・趙麗麗に電話で聞いた時「白髪が多くなり、老けたようです」と聞きましたが、釈放が近づいた為、私に心の準備をさせる意図であったことが分かり、実際に面会も許可されませんでした。アメリカにいる娘が母とカメラチャットをしたいと言いましたが、娘にショックを与えないように拒絶していました。また親が見ても辛くなる為、親の見舞いも断っていました。
現在妻はまっすぐ立つことができず、歩く時も体が揺れて数歩しか歩けません。普段、家では車椅子で移動しています。低い腰掛けに座ると全身が痛くなり、高い腰掛けでも時間が長くなると痛くなり、長時間寝たきりになり、自立生活ができず、介護が必要な状態です。
(完)
(注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)
2010年09月03日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/8/11/228201.html)
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