安逸心は修煉の道の大きな障害である
(明慧日本)私は高校の教師で時間的に余裕があります。それで生じた安逸心で、何をするのも後回しにする習慣が身についています。心から常に楽になりたい気持ちがあって、楽になってからは自分の安逸心を認識して後悔し始めます。このような状態が長期間続き突破できませんでした。
安逸心で学法するとき眠くなります。私は日ごろどこかに寄りかかり法を学ぶ習慣があり、ちょっと楽に学法しようとするとき、すでに安逸心が優勢になっているのです。安逸心で人を救う機会も見逃します。この間、他地区にいる叔父のところに行こうと思いました。叔父には5人の息子がいて、それぞれ結婚もしていて大家族です。多くの人を救う良い機会でしたが、今年向こうの冬はとりわけ寒いと言われて、とにかく時間があるから後で会うときに伝えようと思い、行きませんでした。
朝の煉功の時間に起きられなければ、お昼に補えばいい、学法するとき眠くなったら、ちょっと寝てから学べばいいと、その瞬間に楽な方をとります。発正念の四つの時間も守れなくて、学法の質も保てません。それで、身体上に魔難をもたらしました。二週間前から全身に痛みを感じ、頭が重くて首が痛くなりました。そもそも痛みを忍んで、多く学法し多く煉功して精進すれば乗り越えられるはずですが、発正念をするときに首が痛いという理由ですぐ横になってしまい、しかも楽だと感じてしまいました。このように一週間続いても、乗り越えられませんでした。
邪悪は私に対する妨害を増やしました。母に私が逮捕される夢を見たと言われ、同僚たちが、今の若い人も脳血栓にかかる可能性が高いなどと話しているのを聞きました。邪悪は、これで師父に対する正念を動揺させようとしました。このとき、師父が私を悟らせてくださっていると感じました。集団学法の時、一人の同修は自分がどのように学法し、発正念してから病業を乗り越えたかを話しました。また、他の同修の明慧ネットに投稿する原稿を入力するとき、私は病業に対する同修の認識を知ることができました。慈悲なる師父は、このように情けない弟子を引っ張ってくださいました。
安逸心は「私(し)」の現れで、自分の体だけ楽になればよくて、苦しみに耐えようとしません。これは人の体の属性で、修煉者は人から抜け出そうとしているのではありませんか。修煉者は苦しみを嘗めてからこそ、業を滅することができ、法の中で精進し、師父に付与された衆生を救う使命を果たすことができるのです。
今は人を救う緊迫感を意識し、安逸心は修煉の道で大きな障害であると感じました。多くの法を実証することが安逸心で後回しにされました。常人の仕事、家事、学法、発正念、真相を伝えること、これらのすべては全部しっかり行わなければならず、しっかり行うには休憩、睡眠から時間を使うしかありません。自分の惰性、疲れの限界を克服するには、自分の主意識がはっきりして、法理上から認識しなければなりません。師父のお話を復習しましょう。「苦を嘗めるをもって楽と成す」(『洪吟』「その心志を苦しめる」)
今日、根本から安逸心を掘り出して、暴露しました。私と同じ問題がある同修はともに精進してほしいです。師父が私たちに残された時間をこのように無駄に使ってはなりません。心から常に衆生を救うこの神聖な使命を考えるべきです。それはすべての動力の源で、人の享受と執着は、末法の時期に人を救う前ではきわめて小さいことで、まだ捨て去れない心があるのでしょうか。
2010年12月26日
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