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同修を責めたがり、裏でうわさ話をしたがることについて


文/中国の大法弟子

(明慧日本)同修が人を責めるることで、指摘された同修側にもたらした魔難および全体に与えた妨害について、たくさんの同修の文章の中で分析されています。私の周りでは、いろいろな方面でしっかりしている同修たちはこれに対して重視しておらず、相変わらず同修の不足を責めたり、うわさ話をしたりしています。ここで、このように責め、うわさ話をする同修と、個人的な認識を交流したいと思います。妥当でないところは慈悲にご指摘してください。
 
 個人の次元から見て、このような同修は単刀直入な性格で、細かい部分を気にせず教育水準が低く、外面的な教養などを重視していないのです。この点は、法を正す時期にそれなりのメリットがあります。なぜかと言えば、観念がなく、いろいろなことに顧慮しないので妨害されにくいのです。相生相克という旧宇宙の法理に制約されて、良いことの反面悪いことも生じます。「相生相克の理は以後、変化が生じます」(『誰のために修めるのか』)ここで話したいのは、人を責め、うわさ話をすることで生じたマイナスの影響についてです。おそらく一部の同修の心の中には、人を救うことだけ行えばよい、他はたいしたことではないと思っているかもしれません。このような行動は、自分でも気づかなくなっています。
 
 単刀直入に言えば、この行動には同修を軽蔑する心や、区別する心、無責任、法の要求に従って口を修めることをしないなどが隠れています。中国本土で生活している同修は、中共(中国共産党)の洗脳教育を受けて、多少この面で影響されています。人を責め、うわさ話をする本質は、修めるべき人心です。この点は、中共の邪霊が操り、ささいなことから大法弟子に影響を与え、目に見えない状態で全体を迫害し、大法弟子が一丸となることを妨害しています。さらに、師父の正法を妨害しているのです。
 
 人を責め、うわさ話をすることは両方とも良くないことです。相手の同修に妨害を与え、こうする本人にも良くない影響を及ぼします。この行動は法にふさわしくないため、次元を突破することができず、下手をすれば次元が落ちるかもしれません。
 
 師父は『転法輪』の中で、「人を罵ったり、いじめたりすると、その人は自分の徳を相手に投げ与えることになります」「人は良くないことをする時、徳を失っていきます」とおっしゃいました。
 
 人を責め、うわさ話をすることは、表面上では人を罵ることと比べればひどくはないのですが、ある意味で悪いことだと私は悟っています。なぜかと言えば、責められ、うわさ話をされた同修を孤立させ、ひいては多数の同修にうわさ話をされるかもしれません。これは、実質的に同修に隔てを作って外に押し出す行為です。同時に、この行為は、責めてうわさ話をした相手の同修本人にも隔てを作り、これらの同修を師父の正法の進展の全体の中に入らせないのです。これは旧勢力に協力してしまうことになります。この点からみると、たいしたことではないはずがありません。この行為は法にふさわしくなく、師父に妨害を与えてしまいます。ですから、私達は冷静に認識する必要があります。
 
 また、師父は『転法輪』の中で、「人と人の間にトラブルがあって、あなたが良いとか、彼が良くないとか、あなたは修煉が良くできたとか、彼は修煉が良くできていないとかして、これらのこと自体が摩擦です。一般的な例をあげてお話ししますが、わたしは何かをやりたいとか、今このことはどういうふうにやるべきだとか、こういうことでも無意識のうちに誰かを傷つけるかも知れません。人と人の間のトラブルは非常に複雑なので、知らないうちに業を造ってしまったかも知れません」とおっしゃいました。これについて、私達が裏で同修の不足を興味津々に噂し、同修の噂を広げるとき、自分が業を造って、黒い物質をもらうことになると私は悟りました。
 
 私達は同修を責め、うわさ話をする時、徳を失い、業を造っています。知らず知らずのうちに妨害が生じ、修煉に影響を与えています。
 
 しかも、最後の最後になるにつれ、法の要求は私達に対してもっと厳しくなり、私達が人を責め、うわさ話をするのを旧勢力はずっと狙っています。旧勢力は魔難を作って、人を責め、うわさ話をする本人を、ある形の魔難の中に落として、師父の按排した道を歩ませないのです。 
 
2011年02月21日

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