日本明慧
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人を救うことを待ってはならない(一)

文/中国の大法弟子
 
 法を正すことがまだ終わっていなければ、ずっと衆生を救い済度する機会がまだあると、私は間違った理解をしていました。師父の新経文を拝読して突然悟りました。私たちの働きがよくなかったため、多くの衆生の生命は失われ、もう挽回できないのです。師父は私たちに「去年救われ済度されるはずの人は永遠に機会を失いました。なぜなら、法を正すことは絶えず前へと進んでおり、一歩一歩、その次元の人の順番になれば、上ではある天国、ある次元の天体に到達したら、その次元の人が見に来ますが、次回のその席はほかの人のものになり、彼のものではないのです。どのくらいの生命を失ったのか皆さん分かっているのでしょうか?」(『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』)とおっしゃいました。私は頭をかかえて長い間、深く考え込みました。私はこの極めて真剣な問題に直面し、どのようにやれば、その日に自分及び自分の衆生に永遠の苦痛を残さないですむだろうかと考えました。
 
 私は修めて衆生を救い済度しているにもかかわらず、その機会を多く失ったことに気づきました。数年前、ある同僚に真相を話すことができませんでした。その後、この同僚は出張先で深酒をして、脳卒中で亡くなりました。この訃報を聞いた私は信じられませんでした。なぜなら、彼が出張する2日前に、私は彼に真相を話そうとしましたが、彼は受けつけないかもしれないと考慮して話しませんでした。また、ある若い女性は会社の契約事務員で、毎日書類や作成した資料などを真面目に私の前に持ってきて、礼儀正しく私の職名まで呼びました。その後、会社の再建で私たちは離れました。5年後、私は食堂で彼女を見ましたが、当時の彼女は一見してあまり楽しくなさそうに見えました。私は彼女に必ず真相を分かってほしいと思いましたが、1日1日と過ぎさり、彼女に自然に会えたらいいな・・と思いつつも、「彼女はいつもここで食事をするから、会う機会も多いだろう」と考えて、積極的に彼女に声をかけませんでした。その後、突然この若い女性はいなくなりました。私は、「契約社員の整理のため会社側に解雇されたのだろう」と思いました。
 
 振り返って考えてみると、自分の不注意で衆生を救い済度する機会を失ったのは、これだけではありませんでした。今、私はとても心を痛めています。
 
(続く)
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/8/16/交流--救人不能等-245426.html)
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