再び顕示心や歓喜心について悟る
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 ある時期、私は顕示心や歓喜心をコントロールできなくなりました。わずかな目新しいニュースを知り、あるいは少しでも成果を得ると、同修たちに言いふらして、自分は一般の同修と違うことを顕示していました。時にはその言葉を口にすると、口を修めなければならないということを意識して、後悔するのです。しかし、その後はまた我慢しきれず、再び話してしまうのです。これらの心は良くないと分かっていました。これらの心を現したのは何かについて、私は内に向けて探してみました。それは虚栄心であり、優越感を求める心であり、名を求める心からきていることが分かりました。それでは、どのようにしてこれらの執着心を取り除くことができるでしょうか?

 ある日突然、脳裏に一念が過ぎりました。「顕示心や歓喜心は低次元での現れです」 そこで私ははっと悟りました、そのとおりです! なぜ人の上に立つことを求め、人より優越感を求めるのか? それは自分の修煉が低い次元にいることの表れではありませんか? 神佛の一念は天地を造ることができます。しかし、神佛はこのことを顕示したり、喜んだりしません。それは、その次元の智恵と能力であり、顕示する必要はないからです。常人がご飯の食べ方、水の飲み方が分かるからといって顕示したり、喜んだりはしないでしょう。修煉者として、良い修煉状態を保つべきであり、歓喜する必要はなく、ましてや自慢する必要はないのです。

 師父は次のようにおっしゃいました。「この方面において能力のある人がおり、あの方面において能力のある人がいますが、これでうぬぼれてはいけません。私にこれほどの腕があるなど云々しますが、それは法があなたに与えた能力です! あなたはそれほどの能力に到達しなければならないのです。法を正すことはあなたの智慧がそこまで達することを必要としているため、自分がいかに有能かと思わないでください。私に自分の腕を披露した学習者がいますが、実は私が思うには、これは皆私があなたに与えたもので、見る必要などはありません」(『2003年旧正月での説法』)

 私たちが一つのことを成し遂げた時、それは法に符合し、師父の要求に符合したからです。修煉者としての正しい状態なので、歓喜したり、顕示したりする必要があるでしょうか?

 宇宙大法の限りない内包について、私はいまだにほんのわずかしか悟っておらず、大法の要求する次元まで程遠いのです。私は一つの法理を悟った時、師父に感謝するとともに、大法の法理は博大で奥深く、自分はいかにちっぽけなのかよく分かりました。師父と大法を限りなく尊敬します。ここまで考えた時、顕示心や歓喜心に対してつまらなくなり、自分のうぬぼれた考えを瞬時に多く放下できたように感じ、淡白になったように感じました。冷静で、理知をもって確実に修煉してこそ、自分の次元を高めることができます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/10/10/247599.html)     更新日付:2011年10月13日
 
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