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しばらくの間「寺の住職」になった


文/中国の大法弟子 陸渠

(明慧日本)私は以前、大法の著作『転法輪』の中の「嫉妬心」の段落を読んでいたとき、寺の住職が下働きの小僧に嫉妬するという話に関して、寺の住職を馬鹿馬鹿しく思い、修煉者とは到底言えないと思いました。師父のおっしゃった住職の話は、ただあの住職のことだと思い、自分と何の関係もないように感じていました。いつも法を繰り返し読むだけで、法理に照らして自分を探さなかったため、嫉妬心が明らかに表れてきても意識できず、あるいは直視できず、執着を持って同修の執着を指摘し、自分の執着を隠してきました。思わず、自分は知らないうちに一時期的に「住職」になりました。

 私は会社で管理職に就いており、同僚である一人の同修がいます。私達は普段よく交流し合い、お互いに法を学ぶことを比べ合い、個人修煉を比べ合い、よく互いに協力し合ってきました。私は常人の文章なら良く書けるため、会社でよく執筆しました。この同修も文章の書く才能がありますが、練習が足りないことが原因で、応用の文章が得意ではなく、私と比べると文章の水準が一段落ちます。しかし、大法に関する文章ならそうではありません。同修のペンはまるで神の力が雇ったかのように、文章の組み合わせがすばらしいというほかありません。しかし、私は数年間、邪悪を暴露するため文章を書き続けていましたが、文章の数から影響力まで同修に負けていました。私は一方で密かに同修を敬服しがら、時には自分が負けていない気持ちもあり、お互いに長所があると考え、自分をなぐさめていました。

 この気持ちを持てば持つほど、他の同修が私にこの話題を持ちかけてきます。「あなた達二人はともに文章をよく書けています。強いて比べると、どちらが上手ですか?」と聞かれ、私は口では「私はあの同修に負けています。彼のほうが上手です」と答えますが、内心では完全にそう思っていませんでした。私は闘争心が強ければ強いほど、師父はこの執着を刺激するように按配してくださいましたが、私は常に悟りませんでした。例えば、同修は幾度となく私に、ネットで彼の文章がいかに重視されているかとか、良い反響を呼んでいたなどと教えられるたび、私の心境は、皆が小僧を褒めるのを聞いた時の寺の住職と同様な気持ちになっていました。しかし、私はまだ悟らず、同修が顕示心を持っていると勘違いして、自分の嫉妬心を隠そうとしました。今になって、やっと自分がしばらくの間「寺の住職」になっていたことに気付きました。

 私の嫉妬心はこれだけに止まらず、他のところでもよく現れていました。会社で、自分は大法を修煉しているので、金銭に執着していないと思っていました。しかし、部下の給料が自分より高くなったとき、やはり心の中ではアンバランスな気持ちを覚えました。家では、他人がいかに権力や財産を持っていると妻が羨ましがっているのを耳にしたら、私はすぐに、それらはすべて生まれてくるときに持って来られないし、死んでも持って行けず、将来にとって良いこととは限らないと言い返しました。つまり、おまえの夫は人生の真の意味が分かった大法弟子で、最も優秀な人で、どんな人よりも劣らないと言いたかったのです。大法を盾にして、他人を下げて、自己を実証していました。こんな気持ちを持って同修と協力し合っても、強大な法の力が現れますか? 人々を救い済度するにしても、よい効果が得られないに決まっています。

 嫉妬心はとても汚いですが、人にとって敏感な執着でもあるため、同修達はお互いにあまり交流しない話題です。今日、私はこの執着心を皆の前に暴露し、徹底的に取り除き、すべての執着を除去し、少しでも早く大法の中で成熟していき、寛容、純粋な気持ちを持って同修に接し、洪大な慈悲を持って衆生を救い済度し、真に「正法時期の大法弟子」の神聖な称号に背かないように頑張ります。

 2009年12月10日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/12/9/214081.html

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