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神韻を広める過程で自分を清める(二)


文/ワシントンDCの大法弟子

(明慧日本)

二、できるだけ相手の立場に立って物事を考える

 私は常に知らぬ間に自分の観点で他人を量り、他人に要求してしまいます。

 ある都市は、現地に修煉者が二人しかいなかったので、同修の支援が緊急に必要となりました。忙しいワシントンDC神韻公演を終えた後、私は同修を探し、一緒に行って手伝おうと思っていました。私が「一緒に手伝いに行けるだろう」と思っていた数人の同修に声をかけたところ、皆は「行けない」と答えました。しかし、私は彼女達が話した理由は全部克服できることであると思い、だから何度も一緒に手伝い行こうと話しました。結局は誰も一緒に行かなかったので、私は彼女達にある考えを持つようになりました。

 実は立場を変えて考えてみたら、一人一人が皆、違う環境にいるし、それぞれ個別の状況があり、家庭、仕事とそれぞれがかかわっている人を救う他のプロジェクトがあるので、私は自分の環境と状態の中に立って他人に自分と同じように要求してはいけないのです。私は自分の意見を言うことができますが、相手を私の要求通りにさせようとするのは、明らかに自分が法をよく学ばなかったことが原因です。私達は励ますことはできますが、自分ならできることを相手にもするように要求することはできないのです。一人一人が修煉においてどこまで進んだか、どの心をなくすべきかということは、すべて師父が管理されています。私がこういうことを認識できなかった時、師父はいろいろな機会を利用して私を悟らせてくださいました。いつも自分の立場に立って問題を考えてはいけません。まもなく同じ問題が、また他人が私に協力を求める中で起きるでしょう。

 ある地方の神韻を忙しく終えたと思ったら、また次々に各地方から神韻の仕事を手伝ってほしいという声が私にかかりました。本音を言うと、いつも外で走り回りたくはないのです。自分が担当している脱党プロジェクトの仕事にかかわる人がだんだん少なくなっていくし、行きたいという気持ちだけで手伝いに行けるわけではありません。さらに、とても遠い場所に私一人で運転していくのはきついので、また同修を探して一緒に行かないといけないのです。他地区の同修はこのような具体的な状況を理解しておらず、私のその時の感情では相手の話を受け入れにくかったので、心があまり開けず「相手がこのような態度では誰が行きたがるのか? 他人に助けを求めているにも関わらず、命令するような口調だ」と思いながら心の中で何日間もつぶやきました。

 しかし、私の分かっている他の一面は、私に「行ってチケット販売を助けることは衆生を済度することに関わるためで、単なる常人の手伝いではありません。まさに自分のやるべきことであり、法を正す時期の大法弟子の責任であります。文句なしに断ってはいけないことです。なぜ相手が私を気持ちよくさせる話をし、感謝してくれることを望んでいるのでしょうか?」と教えていました。私は師父のおっしゃった「他人からもらい物さえあれば、喜びますが、その人のことを考えようとしません。やさしくしてくれれば喜びますが、相手のことを考えません。甚だしい場合、相手が極度に苦痛であっても、まだ無理にあなたに優しい言葉を掛けていますが、あなたは全く彼の気持ちを配慮しません。どんなことでもあります。つまり、今日修煉し始めたからには、どんなことをしても相手を配慮しなければなりません」(『スイス法会での説法』)という部分を思い出しました。

 考えてみたら、数人だけの同修で一つの地区の神韻の責任を背負うのに、どれくらいの仕事を協調すべきであり、どれくらいの困難を克服すべきなのでしょうか? 私は同修の身になって同修を理解するのではなく、自分の立場ばかりを考えて相手の立場を考えず、さらに相手の態度に不満がありましたが、実は同修が私に修煉の機会を与えてくれているのに、私はまだ悟っていませんでした。心の念を正しくすると、人、車、どんな困難も最後の一分間で全部円満に解決しました。

(続く)

2010年8月17日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/7/26/227536.html

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