恐怖心を抱きながら恐怖心を取り除くことはできない
文/中国の大法弟子
(明慧日本)明慧週刊に掲載された文章「迫害されることは恐怖心を抱きつづけることの口実ではない」を読んでいろいろ考えさせられました。文章の中では次のように書かれています。
「恐怖心があるかどうかは修煉の基点がどこにあるかを表しています。修煉の基点は私(し)のためであり、恐怖心は修煉の中でゆっくりと取り除いていくものだと思うなら、恐怖心と迫害を認めることになり、自然と恐怖心に幾ばくもない余命をつなぐ機会を与えることになります。
修煉の基点が他人のためなら、恐怖心は根本的に存在するべきではないと思っていることになります。修煉の基点が正しければ、正念も強くなり、邪悪も恐れ、自然に恐怖心の問題は存在しなくなります。
ちょっと考えて見てください。佛は宇宙の守護者で、宇宙の衆生のためにすべてを捧げることができるのに、彼は何を恐れるのでしょうか? 新しい宇宙の覚者は新しい宇宙の理を守り、さらに恐れるものがなく、迫害を受けるという概念があるのでしょうか?」
この話は学習者の中で多く見られる、恐怖心を取り除くときの状態を如実に現しています。私自身も含む多くの学習者は恐怖心を抱きながら恐怖心を取り除こうとしていますが、無意識のうちに恐怖心の存在を認めてしまい、恐怖心に生存空間を提供し、つまり自分が恐怖心を求めていることになり、取り除いても、また生じてしまうのです。いくら取り除いても根こそぎ取り除くことはできず、恐怖心をなかなか振り切ることができないと感じています。実は、私達が自分でしっかりと恐怖心を抱いて放そうしないからです。
法を正す修煉の基点から恐怖心をはっきり認識せず、徹底的に恐怖心を否定しなければ、恐怖心に生存する空間を提供し、恐怖心を放任してしまう恐れがあります。「恐怖心を取り除くと口では言いますが、どのように取り除くのでしょうか? 誓約書を強要されたり、洗脳班、労働教養に送られたり、邪悪な環境でやっと取り除くことができます」と思うなら、自然と邪悪に迫害の口実を与えたことになります。
これこそ、私達が自分で恐怖心を求めたことになるのではありませんか? 法を正す基点に立ってこそ、恐怖心を徹底的に取り除くことができます。
大法弟子は人間が修煉しており、神が修煉しているのではありません、恐怖心があるのは正常なことでしょうか? ゆっくりと修煉していいのでしょうか? 実はこれも恐怖心に対する一種の承認です。恐怖心は人間の観念であり、旧勢力が数十年来、私達に注ぎ込んだ自分を守り傷つけられないための人間の観念です。
それは、大法弟子の頭の中でまったく存在する必要のないものです。大法弟子は神の道を歩んでいるため、人間のものが神の一部になることはありえないことです。恐怖心を承認し、求めれば、恐怖心はあなたを制御します。
私達の修煉状態が良くなったり悪くなったり、苦しく感じたりするのは、実は私達が往々にして考えの深い所で、いつも人間の観念と執着に生存空間を残しているからです。私達は「常人の観念を根底から変えなければなりません」(『転法輪』「論語」)さもなければ、あなたは人間でしかなく、神になることはできません。
最近の個人の所感ですが、不適切なところはご指摘下さい。
2010年10月07日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/10/1/230371.html)
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