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師が法を正すことを手伝う中、着実に行うにはどうすればよいか(一)


文/鐘鼓楼

(明慧日本)数日前、私は明慧ネットに修煉体験を投稿しました。文章が発表された後、再び読み直してみると、私はとても恥ずかしく感じました。なぜなら、私が投稿した文章の中に2カ所、師父の説法の引用がありましたが、私は「大法弟子なら皆、この経文を知っているだろう。探すのに時間がかかる」と思って原文を正しく引用しませんでした。今考えて見れば、大法に対する厳粛さが足りませでした。しかし、明慧ネットに掲載された文章を読んでみると、いずれも師父の説法が正しく引用されていただけでなく、出典も明記されていました。それと比べると、私は自分の至らなさを認識し、非常に悲しく感じました。また、明慧編集部の同修に対して敬意を感じました。私は毎日、明慧編集部の同修が毎日とても忙しく、多くの文章を処理しなければいけないことを知っています。しかしながら、私の「面倒臭い」という正しくない一念が、私以上に忙しい明慧編集部の同修の皆さんに余計な仕事を負担させてしまいました。見た目では大した問題ではありませんが、やはり師が法を正すことを手伝う中で誠心誠意、自分の心を尽くせたのかという問題だと思います。
 
 これを通して私は1つの問題に気づきました。師が法を正すことを手伝うとは、最も重大で最も神聖なことです。しかし、私たち大法弟子が師が法を正すことを手伝う中では、ひとつの全体を形成しているので、もし誰か一人の弟子が、具体的な仕事においてしっかり行うことができなければ、師が法を正すことを手伝う全体の進展に影響をもたらしかねません。ですから、私たち大法弟子は、一人一人が必ず師が法を正すことを手伝うことを着実に行わなければならず、たとえそれが人間界では非常に小さく地味なことであっても、そうすべきです。実際、法理から認識しても、大法弟子が師が法を正すことを手伝うために行ったことは、どれも小さなことではありません。神の目からすれば、他空間での作用はとてつもなく大きなものかもしれません。この人間の迷いの環境の中で、ごく当たり前のように感じたとしても、人間には大法弟子がやっていることの偉大さが感じられないだけです。この迷いの中、ひいては旧勢力によって意図的に作られた困難と妨害の中で、大法弟子が動じることなく、自信をもって師が法を正すことを手伝う道のりを最後まで歩むことは、何よりも素晴らしいことです。宇宙中の神々が皆、敬服します。
 
 たくさんの大法弟子がそれぞれ異なる法を実証するプロジェクトに入り、様々な仕事をしています。一部の仕事は、常人から見れば、無味乾燥でつまらないもの、もしくは重要ではないと感じるかもしれません。しかし、それらの仕事は、法を実証するプロジェクトとしては、なくてはならないものです。必ず誰かがやらなければいけません。なぜならば、ひとつの全体としてどの部分が欠けても完全とは言えないからです。どの部分に間違いが起きても全体に損失をもたらしかねません。ですから、私たち大法弟子は法を実証するプロジェクトの中で、具体的に何をしているにしても、それは偉大なことであり、宇宙の正法の進展の中でいずれも非常に重要なことです。もしかすると、一部の大法弟子は天上でこのような誓いを立てたかもしれません。人間界に降りたら、師が法を正すことを手伝うとき、これらの見た目ではつまらないもの、誰もがやりたがらない仕事をやる、と。しかし、神の目からすれば、このような大法弟子がもっとも素晴らしいのです。彼らは大局的な視点で、人間世界で名利を得る機会を放棄したのです。もっとも人から相手にされず、目立たない人間に転生することを選んだのです(まさに、かつて宗教の中での修煉で、炊事係の小僧が最も悟りやすいことのようです)。私はその理由として、このような方面の原因があるためだと感じています。
 
 (続く) 
 
2011年07月09日

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