日本明慧
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人心を放下し、着実に修煉する

「中国の広範囲でリレー発正念する問題について」


文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、地元において一つの状況が現れ、多くの同修は「全市修煉者のリレー発正念を行う」という通知を受けました。通知してきた同修は、面識のある同修もいれば、面識のない同修もいました。その同修たちは「リレー発正念についての注意事項」を手に、裏面にはどこかのネットからダウンロードした文書が印刷されていました。ちょうどこのころ、私は明慧ネットに掲載された「ネットに執着する修煉者へ人心と観念を放下する呼びかけ」という文章を読みました。ここで、リレー発正念について、私の考えを話したいと思います。
 
 まず、明慧ネットこそが大法弟子の交流する窓口であり、師父も何度か、大法弟子の修煉過程における明慧ネットの重要性について説法してくださいました。私が読んだ「全体でリレー発正念を行い、邪悪に迫害の機会を少しも残さない」という文章について、私の考え方としては、少し偏っており、作者は物事を行う心が強く、選んだ発正念の時間を朝6時から夕方6時と決めたのも理由がなく、そして、師父の話を持って自分の執着心を覆い隠しています。地元の一部の同修はこの文章の内容が自分の観念と思想に合致していたため、当市の大法弟子にリレー発正念を計画したわけです。広範囲の大法弟子が何をすべきか、個別の弟子が決めるのではなく、師父が決めてくださるのです。個別の弟子が今日この活動を行い、明日は別の地区に行ってほかの活動を行い、または範囲を広げて省レベル、さらに世界レベルの大法弟子に自分の計画した活動に参加するよう呼びかけになりかねません。師父は説法の中でおっしゃいました。「有意にせよ、無意にせよ、話を大げさに語ると佛も驚いてしまいます」(『精進要旨』「たわむれ言を語らない」)私が思うには、長い間にわたりあまりよく学法していない古い修煉者、回り道をした修煉者、長い間修煉を止めていた修煉者、入門した新しい修煉者は、師父の説法を反復して学法して自分の心を浄化し、心を落ち着かせて師父が要求された事をよく行っているかどうかを点検し、法の字面の意味を理解して、その法の通りに行ったかどうかを一度点検すべきです。
 
 2つ目として、協調する中で、同修の家に通知を配るのですが、面識のある同修もいれば、面識のない同修もいて、3〜4人の同修がグループとなり、同修の家に行って通知を配るケースもあります。そして、この地区にどれだけの修煉者がいるのかと聞く同修もいて、目的は発正念する同修の数を把握したいのでしょう。しかし、このような同修の家を一軒一軒訪ねるということは、安全上の問題を考えたことがあったのでしょうか? こうすれば、同修に不必要な損失を与えることになるかもしれません。
 
 3つ目は、私と接触のある同修を見てみると、リレー発正念するといわれれば、発正念する時間を聞き、発正念すべきかどうかを考えずに行っています。このような無感覚な状態で発正念すれば、正念の作用を果たすことができず、そして、邪悪に乗じられる隙を与えてしまうかもしれません。私が思うには、大法弟子は常に頭脳明晰でなければならず、常に「真善忍」をもって正法修煉の中で悟った生命を量らなければならず、人が言ったからといって、それについて行き、多く集まれば怖くないと思ってはなりません。真に法理に照らして判断し、自分の責任と使命を見極め、常に法に対して責任を持つことを考えなければなりません。
 
 この場を借りて、リレー発正念を発案した同修、または通知を受けた同修と交流したいのは「物事を派手にやりたいがっている同修、または法を学ばず人に学ぶ同修は、邪悪に乗じられた教訓が山ほどあります。私はここで、発正念が重要ではないと言っているのではなく、小範囲のグループ発正念、ある物事に対して集中して発正念することが、当地区において続いています。私が言いたいのは、発正念する名義で行う活動は重要ではなく、正念を用いて発正念することが大事なのです。発正念する過程で耐えず自分を修煉して、純正な心理状態を保ち、法に対して責任を持ち、衆生に対して責任を持ち、これこそ最も重要なのです。
 
 以上は、私の次元での認識なので、不適切な表現があると思います。どうぞ慈悲を持ってご指摘してください。 
 
2011年01月22日

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