「忠」について
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文/中国の大法弟子

 ある同修は、岳飛(がくひ、中国南宋の武将で、最も有名な英雄)が忠実な臣下になるため死を選んだ物語を読んだとき、思わず涙を流しました。そして、忠実こそが一人の生命にとって最も必要としていることだと悟りました。

 同修の認識によると、一人の生命の持っているすべてのものは、その主から与えられたものです。ですから、その主に対して無条件に従うだけです。これこそ、生命のあるべき正常な状態です。例えば、仏陀が水を飲みたいと思い、念を起こしてコップを作り出したとしましょう。このコップの使命は、仏陀が水を飲むためにあるのです。もしある日、コップ自身が、もうこれ以上仏陀に水を飲ませたくない、他のことをやりたいと言い出してしまえば、そのコップはすでに、あるべき本性から離脱して変異してしまい、腐敗に向かっているのです。

 昔、古代の儒家の書籍にこのようなタイトルがありました。「天命はすなわち性である」つまり、一つの生命の本性は、天上によるその生命に対する命令です。師父と大法が与えてくださった使命は、すなわち自分達の先天的な本性であり、私達は必ず自分の最大の努力を通して、それを行なわなければなりません。私達が師父と大法に忠誠を尽くしたければ、必ず生死の執着を放下できるようにしなければなりません。

 その同修は特に、生死を放下することについて強調しました。常に自分を放下できるのです。その同修の話によると、きわめて迫害がはびこっていた2年間、その同修たちはほぼ毎日、生死を放下することについて話し合ってきました。私も同じく、生死に関わる関を何度か乗り越えたことがあります。心を堅くして乗り越えられ、そして心の中でいささか喜んでいました。自分はすでに生死を放下できたと思っていました。しかしその後、再び魔難に遭ったとき、頭の中にさまざまな人心、雑念があり、さらに邪悪の要素のため、すでに生死を放下したにもかかわらず、関を乗り越えられなくなってしまいました。さらに、何度も邪悪からの試練を乗り越える中で、次の理を悟りました。それは、何も思わず生死を放下することが、本当の放下だということです。毅然と何も思わず個人の人体を何も考えず放下できるようになると同時に、さまざまな人心を放下できなければなりません。

 中国本土には、岳飛の忠は無意味な忠だという観点があります。それは、中共の党文化が人間の考えを変異させた結果だと思います。階級間闘争、専制政治による恐怖の中、自分を守るため、娘や息子が親と闘ったり、妻が夫を裏切ったり、友人の間で互いを陥れたりし、完全に忠誠心や同義をなくしてしまいました。最終的に、人間の考えが変異してしまったため、忠誠心をアホ、バカだと見なし、ずる賢さこそ本当に頭が良いことだと思うようになり、人を裏切ることが悟りが良い現れだと思うようになってしまいました。このような生命はすでに腐敗し、変異しました。このような価値観を持っている人があまりにも多くなっています。社会が末劫に向かっているのです。
 
 
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/9/14/246759.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/9/20/128222.html)     更新日付:2011年9月25日
 
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