文/スイスの大法弟子
【明慧日本2018年2月24日】 尊敬する師父、こんにちは。同修の皆さん、こんにちは。
約10年前、ジュネーブで神韻公演を行なうことが決まったと初めて知ったとき、これは師父がスイスの学習者に定められた修煉の道だと、何の迷いもなく確信しました。中国にこのような古い伝説があります。ある人が街で仙人に出会いました。仙人は彼に「道を信じますか」と聞き、彼は「信じます」と答えると、仙人は彼にヒョウタンの中に飛び込めと命じました。彼は少しも躊躇せずにヒョウタンの口の中に飛び込みました。その人の「信」の固さは私に深い印象を与えました。
師父について衆生を救い済度する任務の神聖さを感じると同時に、私は大きな圧力も感じました。すべての執着を放下して、無条件に師父についていくことを求められていると私には分かったからです。
時々、予定外の仕事がきて、やるかやらないかを考えるとき、私はよく師父が『轉法輪』におっしゃった言葉の「修煉するかしないか、修煉できるかどうかは、すべて自分の心性をどうやって向上させるかにかかっています」 [1]を思い出します。法を正す進展についていけるか、合格した修煉者になれるかと私はよく自分に問いかけました。
以前、修煉することは大法の仕事をやることに等しいと私はずっと思っていました。特に中国での迫害を一日も早く制止させることの緊迫性を考えて、はじめの頃、私は具体的な仕事に没頭して、自分の修煉を疎かにしました。そのため、家庭でも、勤め先の同僚との間も、同修との間も多くのトラブルが発生しました。私は習慣的に大法の仕事を急いで行ない、善と忍を修めることを怠けて、内に向けて探すことと自分を改善することを怠ったのです。自分のしている事がとても重要で、それを妨げるものをすべて妨害と見なして、毎回出遭った新しい難題を自分を高めるための修煉の機会と見なしませんでした。
過去10年の間、毎年ジュネーブで神韻公演を催すことができたのは、我々の幸運です。神韻公演の宣伝と並行して他のプロジェクト、例えば人権問題と関連あるイベントや政府部門に真相を伝えることなどもしなければなりません。私たちはやればやるほど、衆生を救い済度することの緊迫性を感じます。
修煉の基礎を固く築く
自分を修めて衆生を救うために、まず厳粛に修煉の基礎を築く必要があり、しかも絶えず補強していかなければならないと思っています。つまり、学法、煉功、発正念をより多く行なうことです。自分はいくつかの面でまだ合格基準に達していないと知っているので、怠けてはならず、時間をさいて学法して、『轉法輪』を暗記し、煉功しなければならないと自分に言い聞かせています。
法を学ぶことは絶対に必要なのです。神韻宣伝を行なうときに、もし学法が足りないと、きっと正念も弱くなり、ときにはいらいらしやすく、かんしゃくを起こしやすくなります。
本当ですよ。私の場合、学法が足りないとき、各方面からの試練も増えました。そのため、私は穏やかでいられなくなり、やることも上手く運ばず、衆生を済度する役割をきちんと果たせませんでした。
神韻宣伝の期間に私たちは毎朝一緒に学法して、『轉法輪』一講を読んでから神韻の各活動に行きます。一緒に学法する時間はとても貴重だと思います。もし学法を神聖な事だと思わない場合、学法に遅刻しやすくなります。そうすると、その日の神韻活動は上手く運ばず、自分の修煉状態も以前より劣って、名利心なども生じやすくなると感じています。
ある日、私たち4人は一緒に学法をしたとき、部屋の中に大きい法輪が回転していて、4人が巨大な法輪の上に座っているのが見えました。師父は私たちにすべてを与えて下さったと感銘深かったのです。
学法をするときも、自分を修める機会です。読むのが速い人もいれば遅い人もいて、よく読み間違える人もいて、また、大きい声を出して読むのが嫌な人もいますので、その環境の中で自我を放下して、みんなについていけるように努力してこそ、私たちの小グループがはじめて調和の状態に達することができます。
内に向けて見ることこそ修煉
師父は私たちに「法を学びて法を得る 比べて学び比べて修す 事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」[2]と教えて下さいました。もし学法だけをやって内に向けて見ないなら、何も役にも立たず、かえってもっと悪くなるかもしれないと思います。具体的にいえば、神韻宣伝のときに、自分が話したことが来訪者の心を感動させることができず、チケットが売れず、或いは応援をしてもらえません。内に向けて見ないと、トラブルに遭ったら上手く解決できません。
神韻宣伝をする期間中に、毎日同修と一緒にいて、不一致な意見と各種の圧力があることも避けられません。しかし、その特殊な環境にいてこそ、自分の修煉状態が基準に達したかどうかを見ることができます。もしずっと家にいるなら、それを見ることはできなかったのです。
神韻宣伝を成功させるには、強い「自我」を除去しなければなりません。「自我」はとても小さいことにも現れます。例えば、この事をしたくてあの事をしたくない、この事が好きであの事が好きでないなど。そのとき、私は自分に「どうしてこの事をしたくて、あの事をしたくないのですか。これもそれも衆生を救い済度するための事ではありませんか」と聞きます。
現れた全ての情況は私たちの心を是正するためです。例を挙げると、ある日、協調人は私たちにある商業センターで宣伝活動をさせ、翌日また私たちに会社訪問をさせ、私たちは自身の好き嫌いを捨てて、全員が協調人の手配通りに動きました。言い換えると、私たちは個人の趣味ではなく、衆生済度を一位に置くことができました。
ある日、私はとても長いリストを渡され、100人以上の名前と電話番号がありました。手元にやり終えたい仕事が何件かあるため、私は電話をかけたくありませんでした。その消極的な考えが存在するため、何通か電話をかけてみても繋がりませんでした。それで、私は内に向けて、どうして電話をかけたくないのか、と自分に聞きました。リストにある人たちは救いを待っているかもしれないのに、私は自分の好き嫌いで電話をしたくないのです。その時、私は自分の私心が見つかりました。それから、私はもう一回電話をすると、信じられないことに、電話の相手の反応はたいへん乗り気で、私たちのDMを喜んで受け入れると言ってくれました。彼らのほとんどがまだ神韻公演を知らず、彼らに電話をして神韻の情報を教えることは、師父が私のために按排して下さった栄光の仕事だと私は思いました。
相手を責めないことは、心性を守ったしるし
相手を責めないことを覚えたのは、神韻宣伝をやる中での収穫の一つです。何かミスが起きたら、相手をとがめるのはたやすいことで、以前、私はそのようにすることに慣れていました。しかし、そのようにするのは修煉ではありません。師父は私たちに内に向けて探すことを教えて下さいました。今、私は相手の間違いを見ずに、自分の不足を探すことを試みました。探す方向が正しくなったため、往々にしてトラブルの原因を見つけることができました。そのように、トラブルも解決でき、物事がますます順調に運んでいくと私は実感しました。問題が自分側にあって相手に関係がないという道理が分かったために、私は恨みを捨てることができました。内に向けて探すことを覚えてから、私と周囲の同修の関係はだんだん良くなりました。
今の私は同修たちを見ると、彼らの良い一面を捉えることができて、彼らの中の一員になることを嬉しく思っています。一人の修煉者がしっかり修めれば、周囲の修煉者のために手本を見せるようなもので、彼を見て周囲の皆さんも向上するように努力すると思います。
2017年のニューヨーク法会に師父が質疑応答をされるときに使われた言葉は印象深く残りました。師父は質問に回答されるときによく「私はこのように見ていないかもしれませんが」[3]とおっしゃいました。物事に対して師父はいつも良い一面を見て、マイナスな一面を見ないで、弟子たちを済度するために、師父は私たちの良い本源だけを見ておられる、と私は分かりました。一方、私はいつも「誰それが間違っている、私のこれこれが正しい」と思いがちでした。
師父は私たちにとても明るい修煉の道を教えて下さり、そこには消極的な要素がなく、全ての事は積極的な事に変わることができます。肝心なのは、私たちがどう見るかということで、全ては私たちの考え方にかかります。私たちの考え方が変わってこそ、物事ははじめて変わるのだと法会を通じて私は悟りました。
本当に修めるとき、奇跡が起きる
神韻宣伝に携わった中で、私は何度もの奇跡を経験したことがあり、法輪大法に対する信念もますます強くなりました。
ほかの用事があって、または疲れたため、劇場前で宣伝DMを配る活動に参加したくないときもあります。しかし私は困難を克服して劇場に行ったら、いつもそこで知人に会ったり、神韻チケットを買いたい人に出会ったりします。師父の巧妙な按排に感謝します。実は、師父はすでに全てを按排して下さったので、私たちは素直に実行すれば良いのです。
神韻宣伝期間中の修煉環境はとても貴重なものです。同修たちと一緒に仕事をするため、慢心してはいけないので、よく自分の不足を見ていました。同修は鏡のようで、同修が良く行なうとき、私にとって一種の励みとなり、同修が良く行なっていないとき、それをみて私は自分の修煉状態を反省することができました。
神韻宣伝を行う期間は、「自我」を放下する過程でもあります。例えば、時には私は皆をリードしてイベントを催し、時には私はリーダーの指示に従って動きます。「自我」を放下することができたとき、私はとても楽だと感じます。誰がリード権を握るかはぜんぜん重要ではなく、全ての同修は同じ目標のために存在します。
神韻宣伝に携わる中、疲れたとき、プレッシャーが大きいとき、または気を落としたときに私の修煉状態もダウンします。しかし、もし私が自分を良く修めていないと、私のやった事も良い結果を結ばず、本来救われる衆生も救われなくなります。
神韻宣伝の仕事をするとき、自分は完全に大法の中に溶け込んだ感じがして、考えたこともやっていることも、衆生を済度すること以外はありません。少し緩めると、多くのチャンスが過ぎ去って、しかも二度と戻ってこないと私は分かっているので、常にその緊張感を保つことができ、各方面の準備も行ないやすいのです。
神韻宣伝をすると、私はとても喜びを感じます。私の一生は神韻のために来たので、それより大切なことはありません。私がそのような正念を保ったとき、救うべき衆生が突然私の目の前に現れるのです。神韻宣伝をするとき、考え方はとても重要で、念を正しく持てば、師父は衆生を救い済度する機会を与えて下さり、私が困ったときに助けて下さるのです。
神韻公演を催すことは、師父が私たちに与えて下さったプレゼントで、神韻は衆生を救うだけでなく、我々修煉者も成就させています。様々な状況下でどのように自分を修めるか、神韻宣伝の仕事を通じて私は教わりました。内に向けて見て、自分の過ちをすぐ直します。転んだら内に向けて探して、また前へ進みます。師父が私たちに神韻公演の手伝いの機会を与えて下さったのは、私たちを向上させるためで、なんと神聖かつ厳粛なことでしょう。
自分は永遠に師父のような計り知れない慈悲の境界に達せないとわかっていますが、神聖なる修煉の道を歩んで、師父からの期待に背かずに頑張りたいと思います。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩と詞:『洪吟』「着実に修める」
[3] 李洪志師父新経文:『大法伝出二十五周年ニューヨーク法会での説法』
(2017年ヨーロッパ法会の発表原稿)