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内に向かって探し 法の下で向上する


文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、「同修は鏡と同じ」という交流文章を読みました。中に二つのことが書いてありました。一つは人に言われたくない心、もう一つは同修の不足を見て自分を修めることです。私も同感で、同修を鏡のように見れば自分のことがよく分かり、法の下で向上することができます。

 少し前、私の足はずっと痛くて住宅から降りて出て行かれない状態でした。原因を探しても分かりませんでした。ある日グループ学法の後に、中のある老年の同修が病業の状態になり、半身不随になったものの正念をもって師と法を信じて7日間で快復したことについて話しました。ある同修は過去の個人的なことまで言い出して、言えば言うほど「プンプン」怒りました。他の同修は、「私たちは修煉者であり、法に基づいて問題を見るべきです。人間の情を放下して、家族や同修に対してもっと善を持って対応するべきです。個人的な恩讐に執着して、どうやって向上するのでしょうか」と指摘しました。

 同修を助ける過程で、私は急に自分の状態が悪い原因が分かりました。それは自分が情を放下していないことです。私には子供がなく、若い時に男女1人ずつを養子にしました。2人を育て、今それぞれ結婚しました。しかし、私はずっと養子の2人が親孝行をしないと思っています。夫が亡くなって、私は住んでいない自宅を売って子どもにその分のお金をあげました。息子は満足せず最後の1軒の住宅も欲しがりました。私は怒って、自分1人で外に借家を借りて生活しました。この件を思い出すたびに腹がたち、まったく修煉者としての自覚を持たなくなりました。

 功は功であり、過ちは過ちで混同してはなりません。人心を放下するよう、いろいろと師父に啓示をいただきました。「神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです」(『マンハッタン説法』)

 私は自分の過ちを知りました。普通の常人と同様に争ってはなりません。情を放下して、自分の子どもを自分の衆生のように見て、慈悲に接しなければなりません。私はこの純粋な念を発して、徹底的に放下した時点で、師父がその良くない物質をなくして下さいました。そして、急に身体が軽くなり、思想も宇宙のように広大になりすべてを包容できました。世界のすべてが整然となり、子どもたちのことも普通に感じて、心も和やかになり落ち着いてきました。涙が思わず流れて私は再度偉大なる師父の慈悲を感じて、修煉の機縁を失わないようにしたいと思いました。

  2010年5月15日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/5/8/223078.html

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