修めて得た「福」
(明慧日本)去年の7月、職場で人々が憧れていた職が思いもかけず私に回ってきました。多くの同僚はこんな良い事になってうらやましいという目つきで私を見ました。私も当時原因が分かりませんでした。後でよく考えて見たら、これは自分が心を修めてきた福報なのだと分かりました。
去年6月、職場のある職に1人が必要となりました。この仕事は良いところが多く、オフィスの環境がよく、自由な時間が多い事でした。職場の上司は公正さを表すため、まずこの職に興味がある人は申し込みをするようにとの事でした。その時、私は出張中で帰ってから偶然に同僚から聞いて、自由な時間が多いので、別に多く考えもせず申し込みました。
この仕事は私に任されました。この知らせを聞いて、多くの同僚は意外に思ったようです。私はそもそも上司の目にとまる仕事をしたこともなく、上司から特別な扱いを受けたことがありませんでした。だから同僚は私をみて訳を聞き、仲がちょっと良い人は直接、裏工作をしたのか? と聞いてきました。またある同僚は嘆きながら、日ごろ他人と争わなくても、おのずと貴方のものになりますよね、と話しました。
私も上司がなぜ私を選んだのか分からず、私は裏工作したわけでもありませんでした。申し込みをした人は多く、競り合いも激しいものでした。しかし、後でこの仕事に対するいろいろな噂が飛び交いました。この仕事は昇進が難しく、また仕事の効率が悪いと給料にも影響するなどなどでした。それで多くの同僚はキャンセルをしました。実はこれは根拠もないただの噂でした。自分は別に利害関係を考えず、ただ自由な時間が多い点が気に入りました。残ったのは私1人で、実際この仕事が私に残されたのです。
法輪大法の修煉を始めてから、多くの人間の道理が分かってきました。物事に出会うときは自然にまかせ、自分の物であれば他人が奪うことができず、自分のものなら、無くなることはありません。自分のものでなければ無理に争っても得られません。本当に正しくない手段で争って得ても、別のもので返さなければなりません。「失わないものは得られず、得ようとすれば失わなければならぬ」からです。このことで私が平常心を保たず、利益の損得を気にしたら、他人と同じようにしたはずです。この結果は心を修めてきた福ではありませんか?
2010年6月5日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/6/1/224688.html)
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