協調の中で自我を修めて取り除く
(明慧日本)私は2009年からパソコンをいろいろ勉強してきました。パソコンの操作をマスターする事は、大法の活動に必要不可欠だったのです。ソコンについて少し詳しくなってから私に手伝いを頼む同修が多くなりました。パソコンに触ったことのない同修には、初めから教えなければなりませんでした。
ある中年の女性の同修は、私が何回教えても覚えてくれないので、私は操作の順序をメモしてもらいました。しかし、50歳にならないその同修は字が書けませんでした。数日たって、パソコンの操作について聞きたいと言われ、また同修の家に行きました。その時、私はその同修を恨む心が生じました。私はすでに5、6回も行き、毎回同修が自分で操作できるようになってから帰っていたのです。
この間、外で会ったとき、ネットに繋がらないと言われました。行ってみたらインターネットに繋ぐ時、パスワードの入力にミスがありました。私はかっとなりました。私に言われて同修はもう少しで泣くところでした。話した後、自分が間違っていたことが分かりました。私の心性の修煉が足りなかったのです。
師父は、私たちが互いに協力することの法理をおっしゃいましたが、これまでは他の同修から法を実証するプロジェクトの提案があれば、自分が従えばいいと思いました。今回のことで、私は改めて協調の意味を認識しました。パソコンは私たちの法器で、私たちはそれらとも協調すべきです。同修がパソコンの操作を習うとき、教える者と教わる者の間も協調が必要です。しかし、私は自分が一方的に教え、「私」の心が重く、自分を強調していました。教わる同修の立場にたって、同修の受け入れ能力を考えていませんでした。同修が身につけられない、一回一回の繰り返しは、私の執着心を取り除くためでした。私が同修の貴重な時間を台無しにしたのです。協調の過程が、自我を捨て去る過程であることが分かりました。
またその同修と会ったとき、同修は明慧ネットに繋がらないと話しました。私は穏やかな心で同修の家まで行きました。同修がネット封鎖を突破するソフトを削除していたのでした。私は彼女を励ましながら、今後、有用なソフトは削除しないように教えました。私の変化を見て同修は微笑みました。
修煉は厳粛なことで、私たちはその中から一つ一つの心を見つけて捨て去り、次元を向上させ、師に手伝って法を正し、衆生を救うのです。
2011年01月11日
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