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正法修煉と個人修煉に対する私の認識

(明慧日本)執着を恐れる、それ自体が一種の執着心で、師父は『精進要旨』「漏れるところなし」で次のようにおっしゃいました。「修煉とは向上のために修煉しているのであって、あなたはすでにこの執着を捨てられたというのなら、なぜ、執着を恐れること自体も捨てないのでしょうか? 漏れることなく捨てることは、さらに高い次元の捨ではありませんか? しかし、修煉者や常人が根本的な捨もできないのに、さらにこの理に言及したならば、それは執着心を放下したくないために、口実を探して法を乱しているに過ぎないのです」
 
 自分がよく修めないことを恐れることも一種の執着心です。これは、法に対する正しい信念が足りない表現です。法の上で法を認識しないため、多くの自分が気づかない執着に私たちの修煉が阻まれます。正法時期の大法弟子として、このように大きな大法の中で修煉していながら、自分が円満成就できないことを恐れていますか? 師父は最近の説法の中でも、私たちの個人修煉の円満成就には問題がないとおっしゃいました。しかし、多くの大法弟子は法の上で法を認識せず、個人修煉と正法の修煉を混同しつつあります。それで、その関係を正しく認識できず、旧勢力の按配を徹底的に否定することができません。
 
 旧勢力の按配を徹底的に否定できないことには多くの原因があります。しかし、一つの肝心な原因は、多くの同修が個人修煉の中から飛び出した修煉状態から自分を修めないことで、知らずに旧勢力の按配と魔難を認めながら修煉しています。このような状態でもたらされた正法・個人修煉を正しく認識しない不良の状態は、直接私たちの正法修煉および旧勢力を全般的に否定することに影響を与えています。
 
 師父は『北米第一回法会での説法』で次のようにおっしゃいました。「溶鋼に木屑が落ちたら、瞬時にその姿が見えなくなります。これほど大きな法をもって、あなたという一人の人間を容れ、あなたの体にある業力を滅し、良くない考えを消してあげるなどなどは、いとも簡単なことです」 自分がよく修めないのを恐れることは、自分の個人の修煉状態を終始心配して、つまり自分のことばかり考えることにもなります。自分が法の上で認識できないことを心配する修煉状態は、私たちが個人修煉から飛び出せない一つの原因で、知らずに旧勢力の按配を認める原因でもあります。
 
 言いたいことは多いのですが重点は一つです。法の中で自分を修煉して旧勢力の邪悪の按配を見抜き、個人修煉から飛び出してきましょう。 
 
2011年01月22日

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