日本明慧
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次元を絶えず向上させる


文/中国の大法弟子

(明慧日本)真に修煉している大法弟子は、修煉の中で絶えず次元を突破しています。次元を突破する現れは、絶えず一つの次元からもう一つの次元に達して、後の次元が前の次元を越えており、執着心および観念から脱皮したようです。
 
 一般の常人の世界では、金持ちは物乞いに自分の財産を誇示しません。あまりにも差が大きいわけです。美人も美人の間で比べ、遥かに醜いと見なしている人の前で美貌を自慢することはしないはずです。人は神に対して敬っており、誰も神に文句を言ったり神を軽蔑することをしません。逆に、神は人と争ったりしないし、人に左右されたりしません。それは次元の差が大きく、人は届かないわけです。
 
 修煉者はどうのようになるべきでしょうか。私達が見下す心を抱いて人を救う時、同修に現れた人心を掴んで放さない時、同修を軽蔑したりする時、同修あるいは常人に自分の得意の部分を誇示したりする時、少し成功してもすぐに自慢したりして自我を誇張する時、その時の私達は何もならず、旧勢力に按配された考えの中にいます。その時の心性、その時の次元は常人のようで、下手するとりっぱな常人にも及ばないかもしれません。
 
 師父は私達に、他人のためになる生命になるよう要求されておられます。失敗したり、悟ったりしているうちに、私は次元を突破していると感じました。ある同修は修煉の中でトラブルに遭って、人心が動じたときに、私はこの同修の事を自分の事のように思って、人を救うことを第一にして、黙々と発正念してあげていました。同修が微笑みながら私に自分の経験を述べて、いかに難関を乗り越えてきたかを話しました。私は以前のように、自分が発正念してあげたと自慢げに言わなくなり、黙々と同修の話を聞いてあげて、同修は以前より自信が強くなり、正念が強くなりました。この時、私は嬉しかったです。
 
 大法のことをするときに、ちょうどいい程度までするのが一番大事だと私は悟りました。それは、自分の強みを持って人の弱いところと入れ替わるのではなく、自分の得意をもって同修の不足を補うことです。皆の出発点は人を救うことなので、自我を放下して同修のことを円融することこそ素晴らしく、協力することができる人はもっとも立派です。
 
 衆生に真相を伝える時に、一部の人が師父および大法に対して無礼をした時、最初、私は怒りを抑えきれずかんかんになりました。次第に、私達は衆生を救い済度しにきたので、衆生が真相を知ることができるかどうかは私達次第だと思いました。私達は、大きな忍の心を抱いて衆生を救わなければならないのに、衆生が無礼を表したら、それらを放棄することができません。それから、私は相手の反応を見ずに根気よく続けました。法を正すことが終わらない限り、一回、二回、三回と自分を正しながら人を救うことをも最後まで続けます。慈悲は神の永遠の形式で、いかなる生命をも放棄してはなりません。
 
 私がこれまで投稿した文章はよく発表ました。最初の時、これは私の力を発揮できたと思いましたが、それから続々と発表された私は、これは私の責任であれ、もともと私が誓ったことだと気づきました。自分の力や自分の威徳のことはちっとも考えなくなり、ひたすら書いて、続けて書きました。文章を書くときに本性の部分が働き、個人の修煉には関係がありません。一人の大覚者は、自分の威徳がどれだけあるなどと考えるのでしょうか? そのような心はありません。
 
 私は絶えず次元を突破して、振り返ってみたときに、以前の次元が低いと感じます。一時、私は『転法輪』を暗記して、静かになって真に中へ溶け込んだときに、私はいかに修煉してもこの無辺の大法の中では小さいと感じ、自分の悟りなと何でもないと感じました。その感覚は、人間の言葉では言えません。その時、人心が解体されたようでした。
 
 修煉者として自分が選択しているならば、修煉者としての姿を表しましょう。次元を修煉の過程で絶えず突破して向上させましょう。
 
 偉大な師父、ありがとうございます。同修、ありがとうございます。 
 
2011年01月18日


(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/1/1/122233.html
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