同修との隔たりをなくして心をオープンにしよう
文/唐山大法弟子
(明慧日本)最近、私の周りで大法弟子が警官に不法に連行される事件が2件ほど発生しました。これについて同修たちは内に向かって探し切磋琢磨しました。私も数日間いろいろ考えてみました。ここで皆さんと交流したいと思います。
数年間の修煉の中で、私が知り合った同修との間に隔たりが生じ、心を割って話し合うことが全くできません。表面上は適当に接していますが、実際心の中では相手を寛大に受け入れることができません。例えば、同修・甲さんは同修・乙さんに、「なぜ自分のしたことを、他の人が受け入れられるのかを考えないのか?」と指摘しました。それ以降乙さんは、「甲さんは器が小さい」と言うようになりました。こうして長い間対立し、いまだに甲さんはこれまでと同じように乙さんを指摘しています。一部の同修はとても孤立されているように感じて、一緒に学法する同修を見つけることができず、何かがあるたびにいつも悲しく感じていました。私は他の同修と一緒にこのような同修を誘って学法しようとしましたが、たとえ知り合いであっても、一緒に学法しませんでした。まだその他に姑と嫁の関係がよくない人や、修煉前のトラブルをずっと抱えている同修もいます。
上記の同修たちに、いろいろな人心があるとは言え、私は同修たちを尊敬しています。同修たちは1999年7.20以降、迫害に遭っても固く信念を持って乗り越えてきました。そして私のように一旦常人に戻って、数年後に再び大法修煉をするように助けてくれます。私は数年間修煉してとても進歩しました。同修たちに感謝しなければなりません。
人の度量が大きければ大きいほど包容力が寛大になり、次元もその分高いと思います。例えば上記の同修のように互いに譴責し合えば、誰かが悪いと言うまでもありません。まず、我々は皆大法弟子であり、宇宙の中で誰と誰が一番親しいのですか? 我々が一番親しいのではありませんか? 何が原因で相手を許すことができないのでしょうか? 輪廻の記事などをよく読んでいると思いますが、歴史上の因縁関係がそれなりにありますので、善の縁があれば悪縁もあるかもしれません。これこそ先史の五千年の芝居を演じているのではありませんか? この因縁におぼれず、最終的に師に随って法を正すことだけができればよいのです。同修の間に隔たりがあってどうやって互いに協力し合えるのでしょうか? 師父のオーストラリアの修煉者に対する説法を見ました。私の理解では、生命には次元があるので、一旦円満成就できたら互いに合う機会がなくなります。一緒にいられる現在を大事にしなければなりません。
この文章を書くにあたり、私が知り合った同修たちが互いに相手を包容し、心をオープンにして欲しいのです。真に円容し、私たちの一脈を広くして、脈を一面につなぎ、力を合わせて師にしたがって法を正すよう願っています。
最後に私は次のことを提案します。以前トラブルがあって未だに理解し合えない同修たちは心を割って話し合い、対立を解消しましょう。面倒くさがらず、問題を回避しないようにしましょう。最後に師父の『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』の一説をお借りして、皆さんと共有したいと思います。「皆さんに長年の修煉を通じて、正しい面で知恵を増やしてほしいのですが、処世術、人となることに関して多く収穫してほしくありません」。
2011年01月27日
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