隔たりをなくして一体を成す
文/中国の大法弟子
(明慧日本)正法の進展につれて、異なる空間のさまざまな悪い物も表面の層までやって来ました。これらの悪い物のこの空間での現れは、大法弟子の各種の人心と執着、旧勢力に利用されて互いに納得しないこと、闘争心、顕示心、嫉妬心、自分を実証する心などです。誰が間違ったのかと論じ、旧勢力の按排の中にいても気づかず、その中から抜け出すこともできません。そのため、一部のトラブルは長期に解決されません。心性が向上できず協力し合わないため、衆生を救い済度することもできません。
集団学法と法の上での切磋琢磨で、隔たりを引き起こす原因を認識しました。それは、後天に形成された私たちの観念と執着でした。法の中で、後天に形成された観念と執着は真の自分ではないことを認識し、取り除くべきです。自分の能力が優れている、彼は別にたいしたことはない、自分がなぜ彼の話を聞かなければならないのか、などが具体的な現れです。これらの心を捨て去らないため、旧勢力に乗じられて同修の間に隔たりが生じ、全体の力が減りつつあります。
特に、互いに責任者になりたいと争っている問題は深刻です。私たちがなぜ責任者の話を聞かなければいけないのか? 責任者の認識が法理上にないときも聞くべきなのか? と言う同修が少なくありません。私は同修に、私の認識を話しました。「私はみんなに集団学法をする環境を提供しています。私の家で集まるのだから、私がこの方面での責任者です。同修Aさんは他の同修が法の上で追いつかないとき積極的に同修を手伝い、ともに学法します。Aさんは同修に責任を取るから、Aさんはこの方面での責任者です。同修Bさんは仕事の面で能力があるから、この面で他の同修をよく手伝っています。ですからBさんも責任者です。修煉には肩書きがなく、師父は私たちの心のみをご覧になります。私たちが本当に法の上で、自分の人心を修めて、積極的に同修を手伝い、全体を円融し、さらによく衆生を救うことができれば、人々はみんな責任者なのです。私たちが直面するのは同修ではなく、私たちが捨て去るべき人心と執着です。優れた能力は、邪悪を取り除き衆生を救うために使うべきで、同修の間で張り合うことは意味がありません」
同修たちも私の認識を認めました。皆が内に向かって探し、心性が向上したとき隔たりもなくなり、全体を形成することができます。ですから、自分の不足を認めて解決方法を探し、さらに多くの精力を三つのことを行うことに使うべきです。
同修の参考にしていただければと思います。
2011年02月01日
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