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内に向けて探すにあたってのいくつかの間違いとアドバイス(二)

(明慧日本)

三、恐れる心をもっと深く掘り下げることができず、法理をもって執着心を覆い隠す
 
 私の周りにこのような同修がいます。自分の中で何らかの考えが生じた途端、それを自分の法に対する信念を揺るがすものだと捉えて、すぐに法を一段落ほど暗唱し、あるいは他の方法でその意念を抑えようとします。このような同修は、外部からの妨害に遭っても同じように対処し、自分の法に対する固い信念が揺らいでしまうことをとても恐れています。しかも、このような考えを自分の心の中に秘めて他の同修に話そうとせず、自分でも深く考えようとしません(もちろん無意識にそうしている可能性がとても高く、このような同修は、もっと内に向けて深く掘り下げてみるべきです)。
 
 大法を修煉する過程で、一気に修煉を成し遂げたいという同修の思いは正しいと思いますが、すでにこれほど固い信念があるのに、いつも良くない思想あるいは妨害に遭うということは、おそらく何か良くない心が深く埋まっているのです。このような時、自分の内にある良くない心に触れることを恐れずに、その思想をたぐり寄せて内に向かって探し続け、その根がいったい何なのかをよく見極めるべきです。
 
 また、心配事が多すぎる同修もいます。このような同修は法理をもって表面を取り繕い、表面的には落ち着いているように見えます。彼らは例えば「学法が足りないのではないか? 三つのことを行うのが少ないのではないか? 基準に符合していないのではないか? 損失を補うことができないのではないか?」などと様々なことを恐れています。往々にしてこのような同修は、表面的にはとても頑張っており、何でもそつなくこなしているように見えます。ある同修は、他の同修が何かをしているのを見ると、すぐに自分も遅れを取らないようにと何でもやろうとします。同修が法を暗記すると自分も法を暗記し、同修が法を書き出すと自分も法を書き出し、同修が何かのプロジェクトに参加すると自分もそのプロジェクトに参加しようとします。
 
 もしかすると、私の考え過ぎかも知れません。しかし、このような同修は往々にして何かをする時、実際の効果と、自分の能力を考慮しない傾向があるように思えます。そのため、たとえ法を暗記し、真相を伝えることをよく行っている同修であっても、修煉の道でいつか大きくつまずいてしまうかもしれません。ある同修は、他の同修から「精進していない」と言われることを恐れ、いやいやながらプロジェクトに参加し、またある同修は、何かをする時「師父が私のそばにおられ、師父は私が何をしたかを分かってくださるので、私はさらに多くのことをよりよく行うべきだ」というような、功を焦り、威徳を稼ごうとする気持ちで大法のことを行っているのではないかと思います。実は、師父は私たちの心だけを見ておられ、漏れなく心を修めることこそ、師父が一番喜ばれることではないでしょうか。三つのことを行うときは、無為の心で行うべきです。「専ら善事を行うもやはり是為にす 執着心を去れば真の無為」(『洪吟』「無為」)
 
 このような同修の多くはたいてい、法の深い内包が見えていない同修で、深いところにある観念がなかなか取り除かれないために法理が見えないのではないかと思います。このような同修は何かをする時、表面的な正しさで、なすべきことを判断し、師父のおっしゃった三つのことを、わき目もふらずに全力で行っています。実はこのような同修は、大法の仕事をしさえすれば精進していると思っており、他の同修や、法から学ぶことをおろそかにしがちであり、何かのために大法のことをするという心が生じています。ある同修は長い間、関に直面していて心身ともに疲れています。こういう時は何よりも落ち着いて修煉し、内に向けて探すべきなのです。師父は『転法輪』の中で、西洋医が抜歯するときの例をあげ、私達に表面の工具だけではなく、実際の効果を見るべきだという理を教えて下さいました。皆さん、このことをよく悟るべきではありませんか?
 
 四、法をよく学ぶことと、問題に遭った時に内に向けて探すことは相通じてい
 
 「法は一切の執着を打破することができ」(『精進要旨二』「妨害を排除せよ」)もし心を落ち着かせて法を学ぶことができたら、法理の現れと悟りによって、とても多くの深く隠された非常にミクロ的な観念さえもすべて取り除くことができます。問題にぶつかった時には必ず内に向けて探し、隠された全ての観念を取り除いてこそ、妨害を受けずに法を学ぶことができ、法理をより多く理解することができると思います。こうしているうちに、内に向けて探すという機制が形成され、さらにより良く内に向けて探すことができるかもしれません。
 
 私はある時、心を落ち着かせて法を学んだ際に、目の前の文字がすべて回転しているのを見たことがあります。私が表面の文字を読み終えた途端、文字がミクロ的に回転し、ミクロ的な次元の理を私の前に持ってきて、すぐにミクロ的な次元に帰っていき、その後また回転して私のもとに来ました。この文字は、一瞬のうちに数え切れないほど循環していました。私は、これが無辺なる大法の、玄妙な現れであると分かりました。私は法を暗記したことがありませんが、他空間の私は、早くからすでに大法を暗記しているのを見ました。また私は、自分がとても巨大な時間場の中で法を学んでいるということが分かりました。
 
 また、「古い弟子」と「新しい弟子」に対する認識も変わりました。ある「古い弟子」は人間の時間場の中で学法をしており、法を一回学ぶと一回と計算されます。しかしある弟子は、他の時間場の中でも学法しているので、一回法を学ぶと、とても多くの回数を学んだことになります。このように比べてみると、この「古い弟子」はまだ「古い」と言えず、まだ修煉がよくできていません。ある弟子は、状態が良かったり悪かったり、自分がよく修めているかどうかさえ分かっておらず、内心が矛盾で満ち、落ち着かずに、あるべき判断力を失い、はっきりしていません。これは主意識が観念によって抑制されているので、すぐにその観念を探し出して取り除くべきです。この観念は、もしかしたら根本的な執着であるかも知れません。だから自分が「新しい」弟子か「古い」弟子かどうかに構うことなく、皆が本当の意味で内に向けて探すことを学び、本当に精進する大法弟子になるべきだと思います。
 
 今回、私はこれほど多くのことを話し、同修の不足を指摘してきました。しかし、私は同修たちが皆素晴らしいことを知っています。大法の中で今日まで歩んで来られた一人一人の弟子は、誰もが威徳無限です! これは私たち自身が修煉において精進してきたというだけでなく、私たちが師父と大法のもとで修煉しているからです。佛法は無辺であり、師父は私たちを円満成就させることができます。ただ私たちは、師父をこれ以上心配させてはなりません。なぜなら、師父はすでに私たちのためにあまりにも多くのものを与えられ、ほぼ私たちのためにすべてを使い果たされたからです。
 
 次元が限られているので、誤りがありましたらご指摘ください。偉大なる師尊に感謝いたします! 素晴らしい同修たちに感謝します!
 
 (完)
 
2011年04月12日

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