【明慧日本2021年2月19日】(前文に続く)
父親・于宗海は2002年、牡丹江刑務所で不当に拘禁され、母親・王楣泓は2004年、黒竜江省女子刑務所に不当に拘禁された。この二つの刑務所は、残酷に法輪功を迫害する機関で、国際上で悪名高い。数十人の男性学習者、数十人の女性学習者が、この二つの刑務所で迫害致死し、多くの人が迫害により後遺症が残った。
法輪功を迫害する専門機関の「610弁公室」(ナチスのユダヤ人迫害のゲシュタポと似ている)は、学習者の信仰を強制放棄させるよう刑務所に指令した。「決裂書」、「懺悔書」、「批判書」、「保証書」を書かせ、最も尊敬する師父を罵らせ、自分の心の中の神聖な信仰を辱めさせ、中共に「真・善・忍」をもう信仰しないと誓わせた。中共は警官の昇格を、刑務成績と、学習者の「転向率」と決め、受刑者の減刑とも連携させた。それにより、利益に誘導され、人間性の最も悪い部分が駆り立てられ、残忍非道な迫害が継続的に行われた。父親は、刑務所で14年以上「一級厳格管理」された。信仰を放棄しないので、何度も電撃され、棒で打たれ、「小白竜」(硬質プラスチック管)を吸い込まされた。
拷問の実演:野蛮な殴打 |
2009年、李東生が「610弁公室」の主任となり、法輪功迫害に一段と力を入れた。法輪功迫害を主導する新たな副看守長・付潤徳は、各区の刑務所に「指令文書」を発行した。「各区の刑務所は、法輪功に対して必ず100%転向させよ。さもなければ、全ての区の刑務所リーダーを全てクビにする」
第六区刑務所の副隊長・畢海波ら警官は、馬三家で1カ月の訓練を経て、(どのように迫害して、強制的に信仰を放棄させるかの訓練)11月、父親・于宗海に対して非道な手口が下された。まず何日も睡眠させず、死ぬほど頭を痛くさせ、極度に疲労した情况下で、警官・畢海波は、別の刑務所から連れてきた、長期に、意図的に育成した、刑事犯集団の手下を現場に登場させた。減刑に臨む者や、出所したい者もいて、どれも手柄を必要としていた。来てからまず質問する。「転向するかしないか?」。父親はきっぱりと否定した。最も攻撃的な人は、血を見るまで絶えず殴った。受刑者・趙剣輝が来て、父親の指を後ろにへし折ってしまった。「お前を屈服させてやる!」と言って、7~8人が暴行を開始した。拳が頭に雨のように落下し、すぐに頭は大きなコブで覆われた。硬い鉄の棒を、口の中へ突っ込み、2本の歯が折れ、口に靴下を入れて塞がれ、ガムテープを口に巻かれ、両手は背中で縛られ、両足を縛って、再び暴行した……。
父親は肋骨を打ち砕かれ、全身が傷だらけになり、顔が潰され、頭が大きく腫れたが、それでも「転向」しなかった。また父親は衣服を全てはぎ取られ、水回りに運ばれ、何人もの人が大きな洗面器の水を何度も身体にかけた。それからプラスチックパイプを蛇口に繋ぎ、二つの蛇口を最大にして、へそ、耳孔にかけた……。午後2時からずっと夜中の12時まで続けた。このとき北方の冬はとっくにマイナス十数度にもなっていた。10時間後、残ったのは「呆鶴」というあだ名の、1人の知恵遅れの暴力犯が鼻を膨らませ、殺意を持ち、窒息に近い父親に、「転向書」に署名を強要した。その後、父親はこれを無効と主張し、また猛烈な迫害を受けることになり、高圧電流で電撃され、毒を打たれた。
拷問の実演:電気棒で電撃される |
長年、何度も迫害されたことにより、父親の胸骨は突起し、足はびっこを引き、歯は折れたり、砕かれたりして、ほとんど残っていない。目は作業場で怪我をした後、治療の遅れで永久に涙小管断裂になった。刑務所は父親を痛めつけるため、埃が充満する作業場で目を閉じることを許さず、人を派遣して監視させた。涙の無い目に埃が入って、まるで一握りの干し草を差し込むように、極度の乾燥と刺すような痛みで、父親は両手できつく頭を抱えて夜通しベットにひれ伏した。
母親・王楣泓は、黒竜江省女子刑務所で、父親と同じようにひどい日々を過ごした。第7区刑務所で母親は、大隊長・楊華に、長時間立たされ、作業場で最も疲れる仕事をさせられた。身体の横に2台の機械が同時に稼働し、7、8月のような気温30度の中、どの機器も最高温度が180度で、毎日高温の中、14時間作業させられ、母親の黒い髪は白くなってしまった。
2006年、母親は「転向」しないことにより厳しく管理された。朝から晩まで小さい椅子に座らされ、トイレに行くのも、皿洗いも、「包夹」(受刑者に監視される)に、どこでも監視され、夜中のトイレも「包夹」について行かれ、学習者同士が会わないように、話をしないようにさせた。もし学習者が出会って話をすると、訓戒され、ひどく罵られた。
拷問の実演:長時間小さい椅子に座らされる |
2008年2月、母親はベッドの上で足を組んで煉功したため、「包夹」らに見つかり、警官・張暁娟と、徐臻らは数人の受刑者を連れて、牢屋に押し入り、母親・王楣泓をベッドから引きずり降ろした。その時、右足の膝から着地したので、膝上部が長期に痛み、何日も足を引きずることになった。
2011年12月、刑務所は再び学習者を厳しく迫害し、母親と他の学習者を隔離し、作業場から1人の長期刑の殺人犯を選び出して「包夹」させた。2人の「包夹」が母親を監視した。
父と母が心配な銘慧は、深夜人が静まり返ったとき、我慢できず泣き、父母が出所する日を、一日一日と数えた。
2014年、母親が先に刑務所から出所し、父親と銘慧のいない家に帰ってきた。銘慧の気にかけた心が半分楽になった。
2016年10月17日、父親は刑期を1カ月も過ぎてからやっと、牡丹江刑務所の正門から生きて出てこられた。銘慧もこの情報を知り、嬉し涙を流した。
四、最も貴重な財産
子供に豊かな物を残す親もいれば、暖かい記憶を残す親もいる。銘慧の父母は、銘慧に何を残したのだろうか?
銘慧の記憶の中の父親はずっと微笑んでいた
「こども、爪はどうやって切ると思う?」、「爪切りを使う」、「爪切りは無いよ」、「じゃあ、どうやって切るの?」、「あなたに教えるよ。歯を使うんだ。噛む」、「爪は硬いよ」、「あなたに教えるよ。噛んでいると、軟らかくなって取れるよ」、「あ!」、「もう一つ、地面に擦る、コンクリートに。ははは」。父親はとても楽しそうに笑って、あたかもこの刑務所の接見室が、西海林のあの昔の家のようだった。
刑務所で、ある特殊な刑罰があった。「話をしてはいけない」、「他の人にも話しかけさせない」。時間が長くなると、人は言葉を忘れる。父親・于宗海は、厳重な管理の下、長年拘留されて、言葉を構成するのが少し困難になった。刑務所で最も多く訊かれたことは二つで、また彼が最も流暢に回答できた二つの言葉は、「法輪大法は良くないか?」、「良いです」、「まだやるか?」、「します」。春夏秋冬に関わらず、昼夜に関わらず、誰がきいても、回答後にどんな結果があっても、この質問には変わらない回答をした。
中共の留置場で、労働教養所と刑務所で、生存と安全が保障されない状況下で、人間の悪の部分が余すところなく現れ、人間の善もますます尊いものとなる。
父親・于宗海と、他の学習者たちも、「真・善・忍」を実証する行動をした。例えば、人が地面に犬のように腹ばいになる飢餓の中、一つの腐りかけた蒸しパンを、学習者だけが、わずかに食べられる良い部分を、世話をする人がいない受刑者にあげた。労働教養所で、食べる量を減らすため、火にかけたお粥は非常に熱く沸騰し、一碗の漬物がテーブルに落とされ、皆奪い合って我先に食べる。奪い合わなければ食べられない。父親はいつも一番最後に並んで、人と奪い合うことをしなかった。だからお粥が飲めないことも頻繁にあり、漬物も食べられなかった。刑務所の中で、もともと父親へ渡すお金は少なかったが、時にピンハネをして渡さないこともあったが、たったこれだけのお金で買い物をした。父親と世話をする人がいない受刑者の分け前は同じだった。あのような場所で、白砂糖を舐めることは一部の人にとって贅沢なことだった。お金が無くて胃癌を患っている受刑者を見て、父親は袋の半分の白糖をその人にあげた。
また、海林留置場には「伝電」と呼ばれる運動があって、皆で並んで座り、後ろの人が前の人の腰眼を一発殴る。殴られた人はまた前の人を殴る。理由なく殴り合う。人は殴れば殴るほど悪くなり、殴れば殴るほどひどくなった。毎回父親のところまで来ると、後ろから殴られても前の人に手を上げなかった。なぜなら大法の師父は修煉者に「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」[1]と教えてくださったからだった。「停電した」ので、また最初からやり直す。しかし父親はどんなに殴られても、手を上げなかった。最後に、監室はこの「伝電」という悪ふざけを停止した。
良心のある受刑者や、警官も少なからずいた。彼らは、心の中の善良を呼び覚ましたことで、こっそりと学習者を守って、助けてくれた。刑務所で何度も父親の「批判会」が開かれたが、いつも誰も発言せず、うやむやに終わった。ある人は公の場で、学習者を称賛した。「法輪はなんて良い人なんだ!」「某某と法輪を比べたら、天上と地の差だ」(刑務所では、警官と受刑者は学習者を「法輪」と呼んでいた)
信仰を裏切ることをしないため、父親・于宗海は、刑務所の「難題」になった。ある時、1人の楊慶華という受刑者がいて、父親・于宗海を「解決」しに来た。楊慶華とは何者なのだろう? かつて肇東市でヤクザの兄貴分だったが、今は監区強化訓練の「大雑」(受刑者総監)である。囚人服の外に黒いコートを羽織り、面持ちは冷酷だった。後ろに何人もついて、ティーポットを持つ人、猫を抱く人、服を掛ける人がいた。なんとも言えない威圧であり、彼が部屋に入ると、部屋の人は大きな息が出来ないぐらいだった。そしてこの時、ちょうど楊慶華は、死刑を2年遅らせ無期懲役に変更させるタイミングで、急速に手柄を立てる肝心な時であり、刑務所に選ばれた。楊慶華は、まず父親・于宗海に会う約束をし、そして対面し、最初に「道理」を話した。「法輪、指導者が今日俺に任務を与えた。与えられたからには俺は任務を完成させる。お前がどう思うか、何をするのかは俺は干渉しないが、俺の改造を遅らせてはならない! 俺の道を阻んではならない! 今日お前は(四書を)書かなければ、ここを寝て出ていくことになる!」。楊慶華は凶悪な顔つき、凶悪な眼光で、白い手袋をはめた。(始める準備)
痩せて弱々しい父親は落ち着いて口を開いた。「古代の盗跖は、盗みをするとき、先に入り、最後に出て、均等に分けました。古来より盗みにも道理があります。胡耀邦は、大指導者になり、回顧録、一生の最も悔いた事を話しました。彭徳懐が、無実の罪を着せられたのを知りながら手を挙げた。(彼を処理することに同意した)人は良心に背くと、良心は永遠に痛むでしょう。私は全身不治の病で、生きられない人でしたが、大法の師父は、私から一銭も受け取らず、治りました。(また私の心も治癒された)私は絵を描く仕事を個人的にしていたとき、いつも仕事場の物を使っていましたが、法輪功を学んでから、自分がどれだけ得をしたか計算してみて、(同額の物を)買い、それを職場に置きました。誰も私にこのようにするよう教えていませんし、私も誰にも言いませんでした。部門で買い物に行くのは私だけで、領収書はどれだけか聞かれ、私は法輪功を学んでいるので、真実を報告しました。師父は私に、いかにして良い人になるのかを教えてくださいました。私の姉・于真洁は、検察庁の会計です。正式採用試験で、皆が写させてもらっていましが、私の姉は、書き写すことをしませんでした。私たちは真を修めているからです。最後に、検察庁の責任者がその事を聞いて、姉を探して、『現在の社会でまだあなたのような人がいたとは。検察庁でただ1人だけ使うなら、皆あなたを使いますよ!』と言ったそうです」
父親・于宗海は、楊慶華に問い返した。「もしあなたが私なら、良心を失って自分の師父を罵りますか?」、「今日、あなたが私を殴り殺しても、私はあなたを怨みません。捕まったあの日から、私は生きて出ようと考えていません。四書は書けません。私は、自分の逃げ道を按排しません」
このヤクザの男・楊慶華は、傲慢から驚き、横暴から感動し、最後に父親・于宗海に言った。「法輪、人はこのようにするべきだ!」
また留置場には、5人を殺して死刑判決を受けた「殺人魔王」がいた。父親と彼は寝床を共にした。この人はもともと正直な農民だったが、いじめられたことにより、悪で悪を治めると考えてしまった。父親は彼に、人としての道理を話し、大法の師父の詩を暗記するよう教えた。死刑執行前に、彼は父親に悲しそうに言った。「あなたを知るのが遅かった!!」
(続く)
注:
[1] 李洪志師父の経文:『轉法輪』