明慧法会|20年間の修煉の道が私を成熟させた
■ 印刷版
 

文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2022年2月2日】

 一、大法が私に新しい生命をくださった

 私は今年71歳で、1996年に法輪大法の修煉を始めました。

 修煉以前の私はしっかり勉強し、真面目に仕事をし、良い人になることしか考えていませんでした。しかし、何事にも〇×を付けることはしない代わりに、度胸がなく、性格が内向的な私はいつもむかむかするばかりでした。しかも勝ち気で負けず嫌いで、争ってばかりで心身困憊し自分の体を酷使し大病はありませんでしたが小さな病が続きました。片頭痛がひどい時は壁に頭をぶつけ、漢方医と西洋医に診てもらいましたがどちらも好転せず、さらにめまい、胆のう炎、ノイローゼなど、最後にはがんになりました。

 絶望していた時、1996年幸運にも法輪大法に出会いました。法を学んでしばらくして、ある手術をした後の化学療法の時間になりました。当時は病を放下できなかったため、化学療法をするかしないか考えが決まりませんでした。ある法輪功修煉者(以下、修煉者)が「あなたは法を学んだのにまだ化学療法を受けるのですか?」と言いました。私はそれを聞いて「そうだ、放っておこう、私は安心して大法を学び、私はすでに1回死んでおり、修煉を始めてまだ死を恐れるだろうか?」とそれ以来、私は20年以上、1粒の薬も飲まず、栄養補助食品なども飲まず、すべての病気がいつの間にかよくなりました。本当に風を切って歩くようにいくら使っても使いきれない力が全身にみなぎっていると思いました。

 そのころ、いくつかの都合の良い条件があり、職場の空いた部屋を借りて学法煉功し、師父が法を伝えるビデオなどを見ました。毎日忙しく、現在(訳注:2019年)までずっとこの幸福で楽しかった時間に未練を持っています。

 二、自宅に真相資料の拠点を作り、うそを破り人々を救う

 1999年7.20に形勢が急変し、うそが天地を覆い隠すかのようになり、修煉を始めて2年目の私はどうしたらよいか分かりませんでした。集団学法や煉功の環境がなくなり、各方面の圧力が次から次へとやって来て、職場の上司が何度も私と話をし、町内会の幹部もいつも家に来て脅し給料をもらえなくするなど各種の手段で私に修煉の放棄を迫りました。私は上司や町内会の幹部に「私は大法を学び、煉功してがんがよくなりました。国家の指導者はがんになったら治りません、私は年配で百姓をしていてがんにかかり、救いのない状態の中の一筋の光で、大法が大いに助けとなり、みなさんも喜ぶべきです。私は大法を放棄しません。ですからもう悪人を助けて悪事を働くようなことはしないでください」と言いました。その後上司や町内会の幹部は私に会いに来ませんでした。

 同修は明慧ネットから真相をダウンロードすることができ、私はコピー機を1台買って真相資料を作り始めました。初めは恐れる心が特に重くのしかかり、電磁波によって中国共産党(以下、中共)に監視されるのではないかと恐れ、音が他人に聞かれるのではないかと恐れ、家族に見られるのではないかなどを恐れ、一時はどこにでも自分を監視している目があるように感じ、途中でやめてしまいたいこともありました。しかしうそをばらし大法の潔白を証明し、さらに師父の潔白を証明する事は必ず行わなければならず、そうでなければ師父に申し訳が立たず、大法に申し訳が立たないのではないでしょうか? 私には行う条件が整い、それは私の責任であり、必ず行わなければならず、さらにはうまく行わなければなりません。

 この一念を確固とすると、師父は私の恐れる心を取り除いてくださいました。しばらくして私はパソコンとプリンターを買い、すべてをゼロから始め、パソコンとプリンターに対してまったく無知だったところから、インターネットからのダウンロード、編集、レイアウト、文字入力、プリント(以前真相資料はみな明慧ネットからダウンロードした後自分で編集レイアウトした後再びプリント)、DVDの読み書き、大法書籍の制作、法輪功のパンフレット、両面テープの使用、真相シール、真相横断幕、神韻芸術団の公演DVD(中国で配布が許可された時に作ったもの)、毎年のカレンダーなどに至るまで、同修が人を救うのに必要であればすべて作りました。すべてのプロジェクトにおいて、私はできないところからできるようになり、その過程で師父のご加持を感じました。突破するのが難しく思える困難に遭った時はいつも、師父が与えてくださった知恵の下、知恵と考えがどんどん開かれ、不可能に思えることも可能になりました。

 ある時、同修が数メートルの大横断幕を作ってほしいと頼みましたが、布を作る制作費が高すぎ、しかも布に字が書ける人がいませんでした。私は消耗材を買う時にメーカーが送ってくるカラーのA4用紙を利用し、A4プリンターを使い、1枚に1文字、ある場合は2枚で1文字、ラミネートする時につなげ「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」、「世界は真・善・忍を必要とする」、「江沢民を法で裁く」などの大型の横断幕を作り、強力に中共を震え上がらせました。

 真相資料を作り始めたばかりの時、心性が追いつかず、機械がいつも壊れ、物事を滞らせ、いつも技術担当の同修を呼び、技術担当の同修たちは忙しくなりました。私は技術担当の同修から機械の修理を学習した後、小さなトラブルぐらいなら自分で修理ができるようになりました。さまざまな機械も大法のためにやって来たのであり、問題が出たら自分が間違っていなかったかを探し一心不乱に仕事をし、再び機械とコミュニケーションをとりました。すべての機械が私の法器であり、私の心性に伴って動きます。結果奇跡が起き、最後に機械は私がまちがいを起こさないようにうまく協力してくれます。

 私は真相資料を作りながら、大法弟子の歌を流し、プリントし、DVDを焼き、DVDの盤面をプリントし、多くの機械を同時に動かし、きちんとすべての機械の面倒を見て、リラックスして行うべきことを行いました。資料を作り終え時間がある時は同修と一緒に出掛けて真相を伝えました。ある同修が私に「これだけの時間でどうしてこれだけの仕事ができるのですか?」と聞きました。それは師父が私に無限の知恵を授けてくださったからです。

 自宅の真相資料の拠点は私一人であり、時には手が回らなくなり、同修もやって来て一緒に行い、使う消耗材も多くなりましたが、みな同修が送って来てくれます。同修が3階まで大汗をかきながら荷物を運び疲れ切っているのを見て「倉庫に入れてもらったら後で自分でゆっくり運びます」と同修に伝え、その時は自分が運べるかどうかも考えず、他の人に見られるのではないかなども考えませんでした。夜が更けて人が寝静まるころ自分で少しずついつの間にか十数箱の紙あるいはその他の消耗材をすべて上階に運びました。私はその時すでに50~60歳で、身長は高くなく、修煉前は手術を受けていましたが、これらの消耗材を上階に運んでも全く疲れを感じません。すべて師父が私のために行ってくださったのであり、師父のご加持がなければできないことです。このように師父のご加持の下に行い十数年になりました。

 三、師父を固く信じ刑務所から出る

 2014年7月22日、私は警察に不当に連行され、家宅捜索を受けました。警察署で、担当の警官が私にいわゆる尋問記録にサインを要求しました。警官たちは真相がわからずに私を不当に連行したのだと私は思い、すでに大法に対して犯罪を犯しており、警官たちに誤りの上に誤りを重ねさせるわけにはいかず、この生命に生きる希望を残さなければなりません。私は「サインしません、サインすることはあなたにとってよくないことです」と言いました。警官は私に「あなたの家を見たが何もなかった、あなたの給料はみな使ったのか」と聞きました。私は警官に「私はがんになり大法の師父が私を救ってくださり、こんなによいことを私が他の人に話さずにいられますか? 私は当然全力を尽くさなければならず、大法の救い済度がなければ私も存在しません」と伝えました。警官は何も言わなくなりました。

 師父は「どのような具体的なことに遭っても、皆さんに教えたことがありますが、それはいずれも良いことで、それはあなたが修煉したから現れたことです。あなたが思っている如何に大きな魔難にしても、苦痛にしても、いずれも良いことです。それはあなたが修煉したから現れたことです。魔難の中で業力を消すことができ、魔難の中で人心を取り除くことができ、魔難の中であなたを向上させることができます」[1]と説かれました。不当に連行されたのは私がよくなかったからであり、中共にスキを突かれ、これは私自身の魔難であり自分で切り開かなければなりません。

 師父は私たちに「どんな環境の中でも人には親切にしなければならず」[2]と説かれました。私は警官に「私の財布の中にお金があります(財布は警官たちに奪い取られた)、パンと水をいくらか買いに行ってください」と伝えました。警官は退勤し、私は警察署の小さな部屋に拘禁され、警察の協力員3人が順番で私を見張っていました。私は協力員に真相を伝え、三退を勧め、協力員たちは喜んで中共組織を脱退し、さらに私に煉功することを許し協力隊員たちは私の煉功を見ました。夜が更け、隊員3人は一晩中眠ることができず、私は隊員たちに「パンと水は私のですから、食べてください」と伝えました。

 翌日、私は留置場に不当に連行されました。監房で、私が法輪バッジをつけていることに牢名主(訳注:監房内の秩序維持にあたる者)が気付き、驚いて「あなたはどうしてこれを付けて入ってきたのですか?」と言いました。ここにも不当に拘禁されている1人の同修がおり、同修は牢名主に「法輪バッジをきちんと保存し、彼女が出て行く時にまた彼女に渡し、これはここではとんでもないことです」と言いました。その後私が留置場を出て行く数時間前に、牢名主は法輪バッジを私に渡し、私は法輪バッジをつけて留置場から出ました。

 留置場では、法を暗記する時間があり、私は正念を発して中共の迫害を解体しました。心を静めてうまく行えず、こんなにも大きな漏れを自分のどこから作り出したのかを探し、なぜ中共にスキを突かれたのかを探しました。自分にはこれまでの長い間、仕事をする心が大きく膨張し、顕示心、歓喜心、人を見下す心、嫉妬心など、あまりにも多くの人心があるのを知らず、仕事を修煉とし、他人を修めるだけで自分を修めませんでした。師父は何度も悟らせようとなさいましたが悟らず、同修が私に安全に注意するよう促しても同修の考えの方が良くないと思っていました。さまざまな人心に自分で驚きました。

 数日前同修のSさんが仕事を失い、オートバイが壊れ、それでも真相を伝えなければならず、私はSさんに100元を渡してオートバイの修理に行かせたことを思い出しました。私が不当に連行された後、警察は不当に審問し「あなたの携帯電話は?」と尋ねました。私は「携帯電話は持っていません」と言いました。警官はさらに「あなたの家にはどうして2台の電話機があるのですか? あなたは彼らに給料を払っているのですか?」と尋ねました。この話を聞いて私は驚き、私はいつも学法し、同修が来て、大法のことを行う時は、電話機の差込プラグを抜くので、警官たちが電話機を使って私を監視することは不可能です。同修のSさんにお金を渡したのは私たち2人しかその場におらず、誰も知らず、中共はどうしてはっきり知っているのでしょうか? なんと同修のSさんは私の家に来る時に携帯電話を持ってきており、中共に監視され尾行されたのでした。これも不当に連行された一つの原因であり、携帯電話の安全に注意しませんでした。

 師父は「あなたが真の修煉者であれば、われわれの法輪が守ってくれます。わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」[2]と説かれました。

 師父のこの法を私は何回学んだかわからず、どうして「真正」という二文字が見えなかったのでしょうか? 師父が見守ってくださるのは真に修煉する人です。自分にはこんなにも多くの人心があって真の弟子になり得るのでしょうか? 私はうまく行えず法に則っておらず、師父は旧勢力に何もさせないと思っており、なぜなら旧勢力の理は邪だからです。私は師父に過ちを認め、さまざまな人心を修めて取り除き、法に立ち戻り、必ず真の修煉者にならなければなりません。留置場は私がいる場所ではなく、一日も早く魔窟から抜け出せるよう、師父にご加持を求めました。

 師父は「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」[3]と説かれました。師父の教えに基づいて、受刑者と警官を含むすべての人に対して、大法のすばらしさと慈悲をすべての人に対して無私に表さなければなりません。

 私は受刑者に対して大法弟子が迫害されている真相を伝え、時間があれば「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と念じるように伝え、さらにどこにいても受刑者たちに関心を持ち、力の及ぶ限り受刑者たちを助けました。受刑者の間でトラブルが起こると、私は受刑者たちに因果応報について話し、よい人になるためには耐えなければならないと話しました。留置場に入ったばかりの時警官はいつも私に大声をあげましたが、私は平和的な態度で警官たちに応対し、うらむこともせず、善念を用いなければならず、大法の慈悲で警官たちを感化し、ころあいを見計らって真相を伝えました。なぜなら警官たちは最もかわいそうな人々だからです。警官たちは真相がわかり三退しました(何人かは以前大法弟子が三退を勧めていた)

 十数日後、行わなければならないことがほぼ終わったと感じ、私は出て行くべきであり、師父がそばにいらっしゃることがわかり「病業の虚像を演化して出て行かなければなりません」と心の中で師父にお願いしました。このように考えると、私はすぐに床に倒れ、血圧が230で、昏睡状態に陥りました。雑役をする人4人が布団で私を診察室まで運びました。息を吹き返した後、留置場の医者が「私の背中はびっしょりだろう、あなたのおかげだ」と言いました。

 それから、私は食事をすると吐き、水を飲んでも吐きました。ある時朝起きて、私は床に倒れて失禁し、数日後左半身全体が紫色になっていることがわかりました。牢名主は2人の人間を手配し、1人は私の寝起きと服の洗濯を担当し(この人も同修)、もう1人は食事を担当しました。朝食に米の薄い粥があると受刑者は重湯を少しすくい取って瓶に入れてとっておき昼間私に飲ませました。、私が何か食べたくなった時にいつでも対応できるように、子供の受刑者が呼びかけると、誰であろうと持っている物を私に持ってきて、牢名主でさえ自分で買ったごま汁粉を私にくれました。私は他人の物を思い付きでもらうことはできないので、毎回断りました。断れない時は、家族が私のために貯金したお金で、受刑者たちが食べたがるものを買って受刑者たちに分けました。

 ある時、私は用事があり食事の時間をとり逃がし、他の人が私のためにトマトと卵のスープを残しておいてくれました。留置場でこのようなおかずはとても少ないのに、私が食事をする時2人の受刑者が私にスープを飲むように言いました。その時私はすでに食事ができなくなり始めていたのですが、ちょっと酸っぱいスープは飲むことができ、なかなかよかったのですが、たくさん飲もうとは思わず受刑者たちにあげました。他の受刑者は全く関与せず「おばさん(私は年齢が最も高く「おばさん」と呼ばれた)はそんなことをして、こんな一口だけのスープをあなたたちはそれでもいるの?」と言いました。私は「彼女たちがいるなら彼女たちにあげます、関係ありません」と言いました。

 私が食事できないのを牢名主が見て、どこから持ってきたのかわかりませんがビタミンB12の錠剤を数個持ってきて見せながら私に食べさせ、私は自分が病気ではないことを知っており、食べても役に立ちませんが、牢名主の親切を考えると、この生命を愛護しなければならず、牢名主に大法に対するネガティブな考えを起こさせてはなりません。過去に出家人に上げた1杯のご飯はみな功徳が非常に大きなことでした。これは私が20年間で初めて飲んだ薬です。

 私は20日間以上食べることも飲むこともできず、最後はすでに起き上がることができず、昼間はベッドの上で横になり数人の子供の受刑者が自分の座布団を私の体の下に敷き、自分は堅い腰掛に座りました。大法の慈悲が縁のある人たちを感化し、大法弟子が魔難に遭った時助けました。大法弟子を大切にすれば必ずよい未来があります。ある受刑者が「おばさん、もっと早くおばさんに会っていれば、私はここには入りませんでした」と言いました。これは一つの生命の懺悔です。

 ある日、みんなが監房で仕事をしており、隣では修煉者が審問されており、私が監房の入口を歩いた時その修煉者に呼ばれ、監視装置で見つかりました。留置場の警官が問い詰めたのは「誰が入り口にいたのか」ということで、すべての監房で「見た」という人は一人もおらず、牢名主でさえ「見ていません」と言いました。留置場の警官は監視装置を調べに行きその修煉者であることがわかりましたが、その時その修煉者も審問されて監房にいませんでした。留置場の警官は「どうしてみんな見ていないというんだ、全体で3日間厳しく管理しなければならず、食事は許さない」と怒りました。私は留置場の警官の目を見て「彼女の背後にいる邪悪を取り除き、修煉者と衆生を迫害させず、大法に対して犯罪を犯させてはならない」と正念を発しました。その時その修煉者が戻ってきて「私は入り口に行きましたが、何も言っておらず、私を罰したければ罰してください。みんなに迷惑はかけられません」と言いました。昼食を食べさせないという出来事も過ぎ去りました。後になってある人が私に「厳しく管理されたならば、みんな床の上に座り、勝手なことをすることが許されず、食事はここの食事しか食べることができず、おなかが減っても自分で物を買って食べることは許されません」と伝えました。真相がわかった衆生は罰を受けることを恐れず、ひもじい思いをすることを恐れず、修煉者を保護します。受刑者たちが大法の中で恩恵を受け、平安と幸せがもたらされることを願います。

 ある人が私に「おばさんは顔が変わるほど痩せており、あなたが寝たら死んでしまうのではないかと私たちはみなびくびくしています」と言いました。私は受刑者たちに「私は死ぬことはなく、恐れないでください、18年間大法の師父にお会いしていませんが、出て行って私の偉大な師父にお目にかからなけばなりません」と言いました。ある人が私に「他の人は三書を書いたら数日経って出て行き、あなたも早く書いてください、早く出て行き、でなければ37日後には出られなくなります」と伝えました。私はその受刑者に「私は何も書かず、警官たちが言っただけでは何にもならず、大法の師父にお任せします。私は必ず出て行きます」と伝えました。

 不当に連行されて37日目の時、私の道に多少困難があり、警官が私を車いすに乗せていわゆる審問に行きました。担当の警官は逮捕状が出されたと私に宣告し、言い終わらないうちに私は昏睡状態に陥りました。担当の警官はこっそりと逃げ出しました。

 私は病院に送られました。血液検査の時、一滴の血でさえ抽出するのが難しいことを医療人員が気付き、さらに血は黒紫色をしていました。結果を待っている時、廊下にはベンチがあり座って結果を待つ病人と家族がおり、さらに私を見ている若い警官がいました。私は車いすに座り、人々はみな疑惑の目で私を見ていました。私はかつてがんになり法を学んでよくなり、すべての病気が皆なくなり、二十数年間一粒の薬も飲んでいないことを伝え始め、警察がどのように不当に連行し私を迫害したのかについての事実を伝え、人々はみな静かに聞いていました。声は大きくありませんでしたが、私は力を使い尽くし、衆生が皆理解したと思いました。すべてはみな師父のコントロールの中にありました。検査結果は推して知るべしでした。翌日午前担当の警官は家族に通知し私が病気であると言い、午後留置場に迎えに来るように伝えました。

 家に帰った後、その晩私は粟がゆを飲み、もう吐きませんでした。私は時間を無駄にせず学法煉功し、体はすぐに回復しました。

 私は一人暮らしで、子供はそばにおらず、私を不当に連行して数日後、警察は私の親族を探し親族たちに、私が法輪功を煉功し病気がよくなりまた資料を印刷する拠点では多くの物を押収し判決を受けて刑務所に送られるだろう、と伝えました。私が出て来られるとは誰も思わず、家族や警察も思っていませんでした。私を見た人はみな「あなたが出てこられたことは奇跡です」と言います。1週間後、私は寝間着を2着買い、20足以上の靴下とパンツを留置場に送り、関心を持って私を世話してくれた縁のある人に分けました。私は再び師が法を正すことのお手伝いをする大きな流れの中に溶け込みました。

 四、路頭に迷い引き続き人を救うことをしっかり行う

 師父は私を留置場から出して助けてくださり、中共はとても悔しがり、いわゆる法律上の手続きを引き続きとらなければならず、私はもちろん承認しませんでした。半年後、私を裁判所へ連れて行くようにと警察が家族に電話で通知し、手続きを経て裁判所へ行けば不当に開廷されることを私は知っていました。私はまだ師父が法を正すことをお手伝し、自分の誓約を果たさなければならず、中国共産党に協力できず、家から出て行くべきで、新しい環境に変え、引き続き自分が行うべきことをするだけでした。

 2015年2月、私は新しい環境を得ましたが、救うべき衆生はやはり自分が生まれ育った町にいるといつも感じました。真相資料を作り終え、再び1時間以上の長距離列車で故郷の街に行って配り、往復で1日時間かかり、毎週2、3回、お金と時間を往復の道で使います。これではいけないので、私は戻らなければならず、さらに多くの時間を利用して人を救いに行きました。

 2015年11月、私は故郷に戻り、親族の家に住みました。こうすれば人を救うのにとても便利ですが、私を不当に連行した警察署からも近かったのです。子供は「お母さんは彼らの鼻の先に住んでいるけど大丈夫なの?」と言いました。私は「何でもありません、安全に注意するし、私には師父がいらっしゃいます! 師父が私を助けてくださるでしょう」と言いました。

 数年来、私は絶対多数の時間を客の流れが多く、販売員が重複しない大型マーケットやショッピングモール、青果市場などに行って『共産党についての九つの論評』や『共産主義の終極の目的』などの真相資料を配りました。電車に乗った後『論語』を暗唱し「私が行くところの別の空間のすべての邪悪要素を徹底的に取り除き、真相資料が1人から10人、10人から100人に伝わりより多くの人が救い済度され、中共を見えない状態にし、監視を作用させず、誰も人を救うことを妨害することを許さず、人を救うことを妨害する人は誰であろうと悪報に遭う」と正念を発します。

 電車に乗って真相資料を配りに行く時、何度も警察に尾行され、いつも師父のご加持の下に巧妙に警察から逃れ、危険を免れました。ある時バス停でバスを待っている時警察に尾行され、バスに乗ってから1メートル離れたところから私をじっと見ており、私は正念を発して師父にご加持をお願いし、ころあいを見計らって、バスのドアが閉まる瞬間にバスから飛び下りました。バスが走りだし、振り返ってバスの中の警官を見てみると、警官は茫然とした顔でなすすべもなく私を見ていました。

 ある時、警官が近郊鉄道線の駅で私を見つけ、私のすぐ後から一緒に電車に乗り、私から1メートル離れたところで電話をかけ「ここに彼女がいる」と言いました。その声が私に聞こえ、私は正念を発して警官を動けなくしてくださるように師父にご加持を求め、私は先に電車を降り、駅を出た後タクシーを拾って離れ、警官をまき、行くべきところに行って人を救うことを行いました。

 以前資料を配る前、資料を数回に分けて配る計画をしなければならず、どこへ行っても、どれくらい持っていくのかを考えなければならず、その後荷造りする時、どれくらい持っていくべきかを師父が私の頭の中で掲げてくださいました。ある時手元に23冊の資料があり、2回に分けて配るには少し足らず、1回で配るには少し多かったのです。私は20冊を荷造りし、師父は全部持っていくよう私を悟らせてくださり、どこへ行くにも師父がしっかり按排してくださり、私は自然のなりゆきにまかせて行けばよく、すべてが順調で平穏でした。

 江沢民告訴の大潮流が始まった時、江沢民告訴に関する通知を明慧ネットで見て、これが法を正す進展であると私は認識し、すべての大法弟子が参加すべきであり、さらに、江沢民を告訴すべきである、と2015年の法会の中で師父は明確に説かれました。しかし私はどのように書くのかわからず、すぐに故郷に戻って同修と交流しました。数日後刑事告訴状の見本が明慧ネットに発表され、私は刑事告訴状の見本を明慧ネットからダウンロードした後、すぐに江沢民告訴の刑事告訴状をしっかりと書き、2015年5月中旬にある市の郵便・電信局の窓口に行ってエクスプレスメールで中国の最高裁判所と最高検察庁に郵送し、私の告訴状を最高裁判所と最高検察庁がすでに署名したというメールの配達証明書を同修が明慧ネットで調べました。

 五、大法の要求に従って自分をしっかりと修める

 2018年7月、中共はさまざまな方法を用いて私を探し、親せきが無意識に私が住んでいるところを話してしまいました。警察がいつも嫌がらせに来て、私は借りている部屋を引っ越しました。

 数カ月後、1人の親せきが親戚の息子の家に引っ越して住まなければならなくなり、誰も家を見る者がなく、私は何も考えずに「私が家を見ましょうか、私は家に住まず家を貸し、家賃はあなたに渡します」と言いました。私が親戚の家を見るので親戚も安心しました。親せきは喜び、二つ返事で承諾しました。以前私はこの親戚に真相を伝えたことがあり、婿が病気で、婿に真相のお守りをあげ「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と念じさせました。婿の体は好転しました。婿の家は農村の家屋で、生活環境は街の建物とは異なり、私はそういったことは考慮せず、大法弟子にとって少しぐらいの苦は何でもなく、婿の生活環境のことは固まりました。

 戻る時今の借家はまだ期限が来ていないと思い、部屋を出たら大家は預り金を返してくれるだろうかと思い、1000元以上でした。もうすぐ家に着く時ある不動産仲介の人を見かけ、意念の中で誰かが私に何かを聞いてきました。その女性はとても親切に私を迎え、私が期限前に部屋を出た場合預り金は戻ってきませんが、大家と家賃の返還を相談し、私が部屋を貸す場合一般的に家賃は最低で6カ月分ですが、私の場合は5カ月分しか受け取ることができず、5カ月では少ないと思い、難しいと思いました。女性は「探してみましょう」と言いました。私は何の希望も抱いていませんでした。私の1カ月分の年金は2000元余りで、1000元は私にとっても小さな数字ではありません。翌日私が仲介のところを通ると、女性は「ある若者が6カ月借りたいそうです」と私に伝え、女性は「まず彼に住んでもらってから部屋を借りるように説得しましたので、夜に部屋を見に来ます」と言いました。私は携帯電話持っておらずその女性との連絡は難しく、その女性は大家と家賃の返還を相談した時もさんざん口数を費やしてくれました。すべてが順調でした。

 このようにして私は農村に引っ越し親せきの家を見ることになりました。1カ月後親せきが息子の家が住み慣れないということで突然また引っ越して戻って来るとは思わず、私はまず若者に1カ月分の家賃を渡しましたが、若者は受け取らず「時間を無駄にせず引っ越します」と言いました。私の息子はそれを知った後「これは人をばかにしているんじゃないのか、70歳を越えた人が簡単に引っ越しできますか? こんなやり方があるものか」と怒りました。私は子供に「怒ってはいけません、お金を使ったり力を使ったわけではなく、彼らと同じではなく、みずからに厳しく他人には寛容な態度をとらなければなりません」と伝えました。

 引っ越しは私にとってすでに習慣になっていました。今回のことに私は少しも心を動かさず、特に平静で、師父は「私に言わせれば自然なことは存在せず、偶然なことはなく、全てのことに原因があるのです」[5]と説かれました。数年来私の引っ越しはすでに常態になっており、師父は引っ越しを利用して私のさまざまな執着心を取り除いてくださり、利益を前にしてマイナス思考を用い、人心で問題を扱うか、それとも自分を修煉者とみなし、大法の基準で内に向けて探し自分を律するのか、ということでした。その時私は表面的に見て心は比較的純粋でしたが、心の奥底には「私は大法を修めてはじめてあなたを助けることができ、他の人には誰もこのようなことは行えない」という顕示心があり、誰かにすばらしい人と言わせたい心があり、心が正しくないのでこのような結果が現れたのでした。人目につかず深く自分の心に隠されたその深い人心を、向上させることこそが最も重要です。

 何度も引っ越しすることもとても大変で、家を探し、車を借り、家を片付け、毎回お金の面で少なからぬ損失があり、引っ越しはまた表ざたにできず、非常時はさらに安全に注意しなければならず、毎回いつも60歳過ぎの妹と2人で引っ越しをしました。すべてがみな師父の心のこもった按排によりさまざまな人心を取り除き、自分をさらに早く向上させ、弟子のために毎回心配してくださることを師父に感謝申し上げます。

 心性が向上し、師父は最も良い按排を弟子に施してくださいました。翌日、私はとても順調に部屋を見つけ、さらに仲介を通さず、家賃が少し安くなり、さらに場所がよく、私が仕事を行う場所からもとても便利でした。

 あるとき、同修と話をする中で、あるプロジェクトのどこそこがよくないと私が支持しなかったことに同修が触れ、私はそれを聞いて怒り、弁解し始めました。突然師父の「神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです」[6]という説法を思い出しました。私は「これはどうしてなのか、どうしてあんなに強く怒ったのか、闘争心も湧き上がって来て、さらに忍を守ることができなかった」と自分に対して後悔しました。これは向上する機会なのではないでしょうか? どうしてまた押しのけるのでしょうか。師父、私は間違っていました、私は本当に間違っていました、このよくない人心を私は必ず取り除き、向上いたします。

 またある時、ある同修があれこれと私に対して強く意見を言いました。私は「こんなにも長い間私たちは一緒に迫害されているのに、彼女はまだ乗り越えていないのか」と思いました。当初私とその同修はいつも資料を作っていたことを思い出し、私が何かをすればその同修も同じことを行い、私が何かの機器を持てばその同修も持っており、何回か指摘してもその同修は改めず、私はできるだけその同修の執着に触れないようにし「私はあなたと同じようなことをせず、手に負えないので逃げなければならない」と感じました。さらにこの心がどこからなのか自分を探すことをしなかったのではないでしょうか? この同修はどうして私にこのように対処するのでしょうか? 私も同じようにこの同修に対処したのではないでしょうか? 自分を修めていませんでした。また私の闘争心、嫉妬心、競争心、自己に執着することなど多くの人心が暴露されました。師父は「放棄して、はじめて得られるのです」[7]と説かれました。その同修がどのように思ったのかに関わらず、私は様々な心を修めて取り除かなければならず、その同修に対するマイナス思考を放棄して自分を修めなければならず、みなそれぞれの次元で修煉しなければならず、みな師父に見守られています。他の人の良いところを多く考え、自分の不足を多く見つめ、相手の立場に立って考えます。執着を修めて取り除き自分の修煉の道をしっかりと歩み、その同修も向上することができます。

 六、明慧ネットに上がることは私が毎日行わなければならないこと

 十数年来、明慧ネットに上がることは私が毎日行わなければならないことです。明慧ネットの文章を毎日必ず読みます。ある同修は明慧ネットに上がることができず、私は初めに師父が発表なさった説法と経文を同修の手に送り、大法のメッセージをその同修に伝え、法を正す進展についていき、正法修煉の物語や「師父の恩恵を受けたことを思い返す」などの音声データをダウンロードして同修に伝え、ネット上で同修が交流している良い文章をダウンロードしてプリントした後学法グループへ持っていき、学んだ後学法グループで交流します。同修が修煉の中でどのように法に則って向上し、観念を改め、問題に遭った時どのように悟り、内に向けて探したのかをなどを見ます。

 ある時発正念の文章を同修が交流するのを見ました。同修は自分の空間場をきれいにする時、さらに旧勢力の按排を否定し、私にも啓発がありました。私は長い間旧勢力に対して認識がはっきりとせず、魔難の中で動かされて旧勢力を承認した後になってやっと清めます。

 師父は「もちろん、旧勢力が按排したこの全てを私たちは認めておらず、師父である私も認めていません。大法弟子も当然認めていません。(拍手) しかし、旧勢力はなんといっても、やりたいことをやりました。大法弟子は今まで以上に良く行い、衆生を救い済度する中で自らを良く修めるべきです。修煉の中で魔難に遭ったら、自分自身を修め、自分自身を見るべきです。これは旧勢力が按排した魔難を認め、それらが按排した魔難の中でいかに良く行うかのことではなく、こういうことではありません。私たちは旧勢力そのものが現れたこと、それらが按排した全てまで否定しており、旧勢力の存在自体を認めていないのです」[9]と説かれました。

 私は「私は大法弟子であり、師父が按排なさった道を歩みます。旧勢力の按排を否定し、旧勢力そのものを認めず、旧勢力の按排はさらに認めず、誰が按排しようとその者に罪がある。進んで旧勢力を除去する」と正念を発しました。このように正念を発すると効果がとても良いと私は感じました。

 留置場を出て初めに行ったことはパソコンを買い、ネットワークカードを買い、明慧ネットに上がることでした。路頭に迷った日々、いつも引っ越し、家を引っ越して初めに行ったことはネットワークカードで明慧ネットに上がることで、中共がどんなにネット封鎖しようとも、師父のご加持の下いつも順調に明慧ネットに上がることができました。この数年の修煉の向上と明慧ネットとは分けられません。毎日帰ってから明慧ネットを見るのは生活の中の一部です。すべての大法弟子がみな明慧ネットというこの大家族に溶け込み、一緒に学びながら修煉し足りないところを見つけることを願います。全体で昇華し全体で向上します。

 ともに向上し、ともに精進する明慧ネットというプラットフォームが私たちにあることを師父に感謝申し上げ、同修たちの努力が大法弟子を一つにつなぎとめていることに感謝申し上げ、ともに師が法を正すことのお手伝いをし、使命を果たします。

 二十数年来、どんな時にも師父の慈悲深いご加護の中にあり、私たちが師父を堅く信じ大法を堅く信じさえすれば、道はだんだんと広がり、穏やかになり、どんな魔難、どんな心性の試練に遭おうと、師父を思い出し法を思い出しさえすれば、とても速く楽に乗り越え、この時が私の最も幸福で楽しい時間でもあります。師父は満身業力の私を死の淵から救い出してくださり、大法によって体と汚れた考えを浄化してくださり、大法の粒子という新しい私に変えてくださいました。

 師父は「喜ばしいことに、皆さんは乗り越えてきました。道程で皆さんがどのような困難に遭ったとしても、振り返ってみると、それは大法弟子に対する煉磨に過ぎず、過程の中で皆さんは成熟させられ、人心を取り除き、最後に圓満成就に向かっていきます。これは即ち、皆さんが歩んできた道です。振り返ってみると、このようなことにすぎません」[1]と説かれました。

 偉大なる師父に感謝申し上げます! 家に帰る道に私を率いてくださり、道がどんなに遠くても、私は師父が法を正されることにしっかりとついていき、圓満成就に向かいます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法八』「二〇〇八年ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」
 [5] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会での説法』
 [6] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」
 [7] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』
 [8] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」
 [9] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」

 (明慧ネット第16回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/11/395456.html)
 
関連文章