法輪大法を学んで 責任感がある人になった
■ 印刷版
 

文/カナダの新しい学習者

 【明慧日本2022年2月2日】幸せとは、何の責任もなく、何の煩悩も心配事もなく、自由に暮らすことだという定義ならば、私はかつて、人から羨ましがられ、とても幸せな人間だと言えるでしょう。

 私の家では、子供の趣味の塾のことから、子供の宿題のチェック、旅行の手配、スーパーでの買い物、庭の整理、車や家の購入、転勤や移住の手続きまで、すべて夫がやってくれていました。義理の両親も我が家のことを気にかけてくれて、私たちが和やかに暮らせるようサポートしてくれています。

 この幸せが、人を頼ることが好きな私に自力で生きていく力を弱めさせ、責任感を失わせました。私は、当然のように他人からの助けや優しさを受け入れて楽しんでいました。間違ったことをしても、誰も一言も私を責めませんでした。買ったばかりの携帯電話を無くしたとき、夫は何も言わずに新しい携帯電話を買ってくれたのです。ある日、私は交通事故を起こし、人にぶつかってしまいましたが、家族の誰も私のことを責めず、代わりに事故の処理をやってくれました。

 30歳の人は社会的な主役であるはずで、30歳の女性は、良妻賢母で、家事をこなさなければならないのです。しかし、妻である私の本来やるべきことの多くは、夫がやってくれていました。

 例えば、私は銀行の暗証番号、携帯電話の登録の暗証番号がよく覚えられず、公共料金の支払い方法がわからず、車の事故のとき、警察に通報することもわからず、ものの置き場所を忘れたりするなど、いろいろなことがあります。義父から「この子(私のこと)は良い子だけど、頭の働きがよくない」と言われたことがあります。

 子供たちの教育も、口先ばかりで実際には力を尽くしておらず、やってみて、ダメだったら、夫に任せることにしました。私は全然、根気がなかったのです。

 我が家は比較的に経済の余裕があり、住む家もきれいで、高級車を持っていて、息子と娘は可愛くて、完璧な家族です。

 私の生活を多くの友人から羨ましがられていますが、私は満足していません。特に落ち込んでいるとき、自分の価値を見い出せず、自信が持てなくなるのです。私はよく目標を立てることをしていましたが、達成することができないと、「自分は何もできない」と落ち込みました。同時に、体調もどんどん悪くなり、何をやっても疲れを感じ、飽きっぽいのです。ほとんどの人がスーパーに行くのが好きで、美味しいものを買ったりして楽しむのですが、私はスーパーに行くと疲れて歩けなくなるので、すぐ出てしまうのです。

 自分の人生や将来のことについてますます心配してきました。「このまま一生を終えるのですか?  これが本当の幸せなのでしょうか?」と思ったりしました。

 2019年、神韻の公演を鑑賞し、心が神に浄化されました。そして、「修煉という道は私の歩む道だ」と気づき、法輪大法を学び始めました。

 法輪大法を修煉する道に入ると、李洪志師父の著作『轉法輪』を読んで、充実感を満ち、満足感を得ました。家族から与えられた愛を享受するだけでなく、それをお返しすることが大切だと知りました。修煉とは、より良い人になる努力し、より親切になって、誰にでも優しく接するようにと自分を修めなければならないと学びました。木を例えとすると、巨大な木に成長したら、日陰になるし、雨宿りもできますが、木の成長に合わせて常に剪定が必要です。木の成長に影響するすべてのものを剪定して整えなければなりません。以前、「木を育てるには10年かかるが、人を育てるには100年かかる」という大人の話をよく耳にしました。

 それから、私は家族からの愛を感謝の気持ちで、「自分はこれらのことを楽しむのは当たり前だ」という考えや態度を改めました。

 義理の両親はとても優しく、私は嫁いでから一度も食器洗いをさせられたことがないのですが、それでも心の底から気に入らない事があると、あるいは自分の考え方と違いを感じたとき、不機嫌になったりしました。両親は10年以上にわたって私たち家族に対する無償な支援に、今の私は心から感謝しています。そのうえ、これから、両親の面倒を見ることを決めました。

 自分の子どもに対しては、しっかり教育する責任があると心の底から思うようになり、どんな問題にも尻込みせず、責任を回避しないようにと、考えを直しました。子供たちの気まぐれや癖に対してけっして許せなかったのですが、現在、子供の立場に立って、「どうしてあんなことをしたんだろう?」と考えるようになりました。

 私はきれい好きなので、時々家の中が散らかっているのを見ると、まず自分に「落ち着け」と言い聞かせます。そして、「何して遊んでるの? うわー、楽しそうね」と子供たちと仲良くして、「部屋をこんなに散らかしていいのか」と納得のいく形で伝えました。そうすると、子供たちが部屋の片付けをするようになりました。

 その過程で、師父が「理性的に教育して、はじめて本当に良い子供を育てることができます」[1]とおっしゃったように、子供を教育しています。それで、心が落ち着き、子供と真心で向き合う楽しさを味わうことができました。

 しかし、子供を教育することは1回や2回だけでは足りず、長い時間をかけて行うものでだとわかっています。

 以前、子供に怒らずに教えることを考えるだけで、「自分には無理だ」と無力感を感じ、臆病になっていたのです。以前の経験から、教える途中で絶対キレてしまいます。しかし、今は、少しずつ我慢することができています。最初の一歩を我慢することが大事なことで、冷静にならないと、理性や知恵は出て来ないことを学びました。

 「我慢すること、冷静になること、自分に考えや余裕を与えることで、トラブルに遭うときにうまく対処できる」という道理を教えてくださった師父に感謝します。「忍」の力を感じるとともに、うまく対処できるという自信が湧いてきました。これらのことは以前の私に一番欠けているものでした。

 それから、「それらの道理と知恵でより多くの子供を教育したらよいことだ」と思いました。そこで、「自分の子供により多くの遊び相手を増やすとともに、家計の足しにもなるし、自分なりの役割を見い出す」と、放課後の学童保育のための開校を思いつきました。

 最初、この思いは、1日だけ頭の中に浮かび、「そんな大きな責任を負うことはできない。根気強くなければならず、情熱も必要だ。家族のために働いてお金を稼がなければならないわけでもないのに、なぜ余計なことをするのでしょうか?」と、一晩で考えが変わって、諦めようと思いました。

 しかし、驚いたことに、夫は私の考えにとても協力的でした。夫は自分の仕事が大変忙しく、文句はないのですが、私がある程度収入を得ることで、彼が子供たちと過ごす時間が増やせると考えていたからでした。

 夫からの応援を受けて、私の頭の中にはあるアイデアがあり、放課後の学童保育のための施設を開校したいと言う気持ちが何度も湧き上がっていました。「やるか、やらないか?」と心の中で損失を計算しました。「やると、私には何を得、何を失うのか?  やらないと、何を得、何を失うのか?」と考えました。やりたくない理由は、自分が失うことは何かと考えていたからです。例えば、自分の時間が減るし、責任が重くなるし、疲れるだろうし、などなどです。しかし、やりたい理由は、子供たちにとってより良い環境ができ、夫も楽になり、家族にとっても良いことばかりということです。

 そこで、師父が教えてくださった道理で量ってみました。師父は私たちにあらゆる面で他人のことを考え、無我無私になると教えてくださいました。それでは、自分のことを考えずに、人のことを優先すると考えましたが、なかなか決心がつかず、半年以上かかってしまいました。しかし、最後に開校を決めたのです。

 それから、すべてのことがスムーズに進み、一緒に仕事をするパートナーも見つけ、仕事の方向性も決めました。そして何より、快適に暮らせる家を買うことができ、仕事場にも近いのです。主人も子供も大喜びです。私もこのような責任を負うことを選択したことで大きな変化があり、嬉しかったのです。

 まさか法輪大法を学んで、人に頼るばかりの私が1人でこんな大きな責任を背負うことが、できるようになるとは思いもしませんでした。

 以前は短気だったのですが、徐々に抑えられるようになり、他人が間違っている場合でも、寛容な心を持って対処でき、相手を理解しようという気持ちになりました。

 今の私は、スーパーでの買い物に疲れを感じなくなり、何をするにも疲れを感じないのです。

 たった2年の法輪大法の修煉で、自分の精神状態が一変するとは思いませんでした

 修煉してからの自分が好きです。人を思いやれる生命は尊いものだと感じています。

 李洪志師父のご指導に感謝いたします!

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/1/6/435428.html)
 
関連文章