文/江西省の大法弟子 晨起
【明慧日本2023年1月8日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私は2006年に法輪大法を修煉し始めましたが、あちこちつまずきながら歩み、苦労を舐めて鍛え上げられ初めて悟る事が出来ました。3年間の着実な修煉を通して、修煉とは自分を修めることであり、内に向けて探すことが修煉者の最も有効な手段であると理解するようになりました。着実な修煉の中で、私を引き上げてくださったのは師父だということに気付かされました。以下に、この3年間の修煉体験を師父にご報告申し上げるとともに、同修の皆さんと交流したいと思います。
一、法の中に溶け込み正念で魔窟を突破する
その日、対面で真相を伝え終えて帰ろうとした時、1本の手が私の腕を掴んで手錠をかけました。その時、私は初めて「どうして私は再び彼らに手錠をかけられてしまったのか? 今、私は何を考えるべきか?」と反応しました。そうだ、師父に救ってもらうようにお願いしなければ! 「師父、私を救ってください、師父、私を救ってください、師父、私を救ってください」と、私の考えはまるで映画のスローモーション映像のように、大声を出すまで時間がかかりました。
刑務所から戻ってまだ2年も経っていないのに、これで4回目の迫害を受けたことになり、とても落ち込みました。私の周りには、刑務所から帰ってきた後、不当な判決を受けて刑務所に入れられた同修がおり、私はどうしてこの道を歩んでしまったのでしょうか? 子供の入試まで、まだ4カ月ありました。前回、子供の高校入試の時に、私は刑務所で迫害されました。家の老母が3年以上待っていたのですが……。私は自分の考えを引き戻しました。
私は何度か迫害を受けたことがあり、中国共産党(以下、中共)の手順をよく知っており、私は家に帰るために「保証書」を書いてもいいのだろうか? まさか! そして私は「息子の一生は神が按排してくださったものであり、母親の苦しみは将来報われるものであり、大法弟子の家族は誰も無駄な苦しみを味わうことはない」と心を徹底的に放下しました。もし私が刑務所に入ったら、息子と母親の面倒を見られないのだから、考えるだけ無駄であり、どうやってこの関を乗り切ろうかと考えました。私はただ、心を落ち着けて、息子と母親のことを考えないようにしました。
心が落ち着くと、師父の法を暗唱したいと思い、師父の法の『恐れ無し』が頭に浮かびました。私は正念を発することに力を集中し始め、師父の法の『恐れ無し』を暗唱することによって頭の中を空にしてくださるようにお願いしました。目の前に現れた一字一句で自分を律し、頭の中で一字一句を書いていきました。
最初に「怕」の文字を「忄」+「白」と書いた時、私はすぐに「脳が忙しくなるということは骨折り損であり、忙しさの中身は恐れである」と悟りました。私は自分の脳に空になるように命じ、他のことを考えることを禁じました。なぜなら「あなたに恐れ有らば 它(ヘビ)は直に抓む」[1]ので、私は恐れず、它に捕まえられないように、脳が盲目的に立ち働かないように「念を正にすれば 悪は直に崩れる」[1]ので、めちゃくちゃな念を正しいものに戻し、邪悪が崩れるように「正念を発すれば 爛鬼炸く」[1]ので、一心不乱に正念を発して它らをすべて爆発によって一掃しました。「神が世に在りて 法を実証す」[1]、この迫害は人間が人間を迫害するのではなく、修煉者の漏れを見抜いた邪悪でした。そうであれば、私を逮捕した警官や検察官や裁判官を善の立場に置くと警官や検察官や裁判官に対して一片の悪念も抱かなくなりました。かれらもまた、救われるために、この浮世に真っ逆さまに飛び込んできた生命であり、私はかれらのネガティブな部分に触れることはできませんが、かれらを救わなければなりませんでした。私は自分の漏れを見つけ、その漏れを修めて正し、法を実証しなければなりません。
あっ、この詩は5行ではなかったでしょうか? どうして4行しか覚えていないのでしょうか? どの行が漏れているのでしょうか? この漏れは、探さずに発覚したもので、法の学びが少なかったのでした。私は後悔しました! 私はまだ法を一定の水準まで学んでいませんでした。自分をしっかり修めることでしか、衆生を救うことはできません。心を落ち着けて最初から何度も暗唱し「修煉の人 法を持っており」[1]が漏れていたのがわかりました。師父、弟子は間違っていました。私はまだ法を心に刻んでいませんでした。私は、もう一度チャンスをくださいと師父に懇願し、自分の過ちを本当に理解しました。
私はここにいることはできないし、師父は迫害を按排されなかったのですから、私たち弟子も迫害を認めず、師父が法を正される時、人々を救うことが弟子としての使命でした! 私の正念は次第に高まり、強くなっていき、私は微動だにせず正念を発しました。私は「恐れ無し」を暗唱し、私の全身はこの5行に溶け込みました。私は徐々に静かになり、慈悲が生まれ、全身が空になり、世界が止まってしまったかのように思いました。
ドアが開きました。「帰れ!」と叫ぶ声がしました。まるで別世界にいるかのように私はショックを受け、中共に連行された時のショックよりも、この声が私にもたらした震撼の衝撃の方が強かったのでした。なぜなら、その日に出て行き、帰れるとは、思ってもいなかったからでした。外に出られないという考えはすべて観念でした。師父は、私の人としての観念を粉々に打ち砕いてくださいました。その声が私にもたらした衝撃の中で「これこそが常人から抜け出すことなのだ」とはっきりと感じました。弟子が法に則って修煉している限り、師父は私たちのために考えてくださるのです。
私は2時間ちょっとで警察署を出て、ひどく危険な連行と迫害がこのようにして解体されました。
家に帰ると、恐怖も喜びもなく、ただ平静で、迫害の手が及ばない状態であることに私は驚きました。人の観念は何ものでもなく、放下しければなりません。この魔難を経て、私は法の中に溶け込むことの素晴らしさと幸せを実感しました。翌朝、目を開けたとたんに「師父は偉大です! 法は偉大です!」という言葉が頭に浮かびました。その言葉が頭に浮かんだのはきっと、師父が私のためにしてくださったことを見て、理解した私の一面が、心を動かされたのに違いありません。弟子が持っているものはすべては師父から与えられ、師父によって作られたものでした。
二、嵐を越えて精進の道を見つける
以前、私は定年退職してから修煉したい、というような人間でした。2006年のある日、大法弟子が全世界で統一して発正念をする時間が、4回の正時しかないことを知り、私は「これで終わりなのでしょうか? みんな修めて圓満成就して帰ってしまったら、私はどうなるのか? 私も早く行かなければならない! 師父、お願いです、私を置いて行かないでください! 私も師父と一緒に帰りたいのです!」と目を覚ましました。私はついに大法を修煉する聖なる縁を得ました。法の縁は結ばれたものの、私は修煉を始めませんでした。
師父は「一人の煉功者としては、まず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、ひたすら耐えられるようでなければなりません」[3]と説かれました。
しかし、私は決して師父が説かれたようにはしませんでした。硬直した人間の考えで大法を見た結果、脳がロックされたかのようになり、法を理解することができなくなりました。師父がすべてをはっきりと説いてくださったような気がして、頭が真っ白になり、師父が何をおっしゃっているのかわからなくなりました。法に同化するとは何でしょうか? 法から法を認識するとはどういうことでしょうか? いくら法を学んでも、法を暗記しても、この問題は解けませんでした。不思議なことに、私が同修に聞いても誰も気に留めず、同修の目には、まったく問題がないかのようでした。
法をしっかり学ばなければ、大法の仕事を行う常人になってしまいます。恥ずかしながら、私は法を学んで間もなく、留置場で双盤の座禅を学びました。私は3年6カ月迫害され、刑務所内の誰もが私のことを「法輪功」と呼ぶので、私も大法に泥を塗ることはできず、刑務所から出てきた時には、私が「法輪功修煉者」であることを知られていたので、しっかり行わなければなりませんでした。こうして、私は受動的に真の修煉の道を歩み出しました。
刑務所で厳しい冤罪の生活を数年過ごした後、私は師父の慈愛深いご加護を本当に実感しました。また、私は自信がなく、自己評価が非常に低い人間から、自信に満ちた修煉者へと成長することができました。当時は昼も夜も、いつも耳元でうめき声や泣き声が聞こえ、あまりにも多くの人が体に傷を受けて苦しんでいましたが、私は体を身軽に感じました。ある時、師父にどんな痛みかお聞きしてみたところ、すぐに私の指に激痛がやってきました。「師父!」 と私が突然叫ぶと、一瞬で痛みが消えました。私のために魔難を負ってくださったのは師父であり、そうでなければ巨大な困難を乗り越えて歩むことはできなかったとわかりました。
師父はいつも説法の中で「法をしっかり学びなさい」とおっしゃっていますが、私の問題は法を学ぶことにありました。2018年、私は刑務所から戻り、学法を強化しました。師父は、ある同修が私たちと一緒に法を学び、交流するように按排してくださいました。この同修は、私に何も提案せず、ただ内に向けて自分を探すだけでした。また私も、師父が説かれた法を自分の一言一行の指導にする必要があることに気づきました。改めて法を学ぶと、今までとは違う感覚を覚えました。師父が説かれた法は言葉も明白で法理をはっきりと理解でき、わからないところがなくなりました。「修は己にありて、功は師にあり」[3]というお言葉は、形容詞だと思っていたのですが、修煉全体を貫いていることがわかりました。次第に、修煉とは法の要求に従って着実に修めること、つまり、私たちの生活のあらゆる瞬間が修煉であり、法の要求に従って行わなければならないということが理解できるようになりました。
学法を充実させるために、法を書き写すことにしました。初めて法を書き写した時は目を開けていられず、最初に法を書き写したのは正邪の大戦の最中でした。完成してめくって見ると、間違いだらけでした。私はあきらめず、落胆せず、もう一度書き写してみようと思いました。
2回目は品質を確保するために鉛筆で書き写しました。今回は、不思議な事に最初の一文字で頭がクリアになり、その後、一度も居眠りすることなく、昨年(訳注:2021年)5月13日の世界法輪大法デーの前日に完成させました。次に、1カ月ほどかけて、3回目を万年筆でもう一度書き写しました。続いて私は『轉法輪』を2回続けて書き写し『洪吟』、『精進要旨』、『法輪大法義解』、『導航』などの師父の説法も書き写しました。
法を書き写したいという気持ちが強くなり、ペンを手に取ると放したくなくなることが多く、いつももっと書き写したいと思いました。現在(訳注:2022年11月)では、法を書き写し、暗記することが私の学法の平常の状態になっています。書き写せば書き写すほど真剣さが増し、書き写せば書き写すほどきれいに書き写すことができました。時には書き写している時、自分が真っ白な物質に包まれているのが見えることがありました。長い時間書き写していると、人の観念ではとても疲れるのですが、大きく伸びをすると、内側から外側までが空になる感じがし、その軽快さに私は驚かされました。
法を書き写す時の最も深い体験は「难(訳注:中国語の漢字で日本語の「難」に相当する)」という文字の「又」+「佳」でした。私は、修煉の中で大法の導きがあれば、それが魔難であろうと困難な状況であろうと、真の修煉者の前にあるのは又一つ又一つと現れる「佳境」であり、それはみな大きなよいことであることを見ました。修煉は神聖なものであり、人の観念を破壊し、人の中から抜け出すのです。
私の修煉状態は根本的に変わり、大法の法理を自分の行動の指導にし続けることで、日々、自分が向上していることを実感しました。法をしっかり学べば、正念を発する力が強くなり、エネルギー場が強くなり、煉功をしっかり行えば、体が軽くなり、対面で真相を伝えることが難しくなくなりました。一つ一つの段階がしっかり連係し合い、精進して修煉する大道を見つけました。
魔難を体験し、越えてきた私は、師父の大きな慈悲を浴びる幸せを味わい、弟子を救い済度してくださったことに感謝申し上げます。師父が人々を救い済度してくださったことに感謝申し上げます。警官に対しても、師父は一人ずつ機会を与えてくださり、警官の善念が目覚めました。
魔難の中で、弟子を一人ずつ押し上げてくださったのは師父でした。師父、弟子は無条件に他の人のための生命になるために、すべての古い観念、人心、あらゆる種類の執着を修煉して取り除かなければなりません。この最後の時に愚鈍な弟子を見放されなかった師父に感謝申し上げます。
ありがとうございます、師父!
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「恐れ無し」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「新生」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の著作:『法輪功』「第三章 心性を修煉する」
[5] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「哀しまないで」
(明慧ネット第19回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)